いささか不穏当な言い回しになるが、権力の本質は暴力にある。

 

 大勢の人々が共に暮らす中で、意見や利害の相反・対立があることはやむを得ない事実である。 その対立を、争いという実力行使を経ずに解消するための、様々な約束事を我々は考え出した。 ただ残念なことに、その約束事が有効であるためには、約束事に反したものに対する罰則という実力行使が必要であることだ。

 

 罰則などなくても、約束事を守るものが多くいることを我々は知っている。 だが他方で、罰則がなければ約束事など頭から無視するものが、控えめに見て半数はいるであろうことを、スーパーの駐車場で逆走するフツーの主婦を見るたびに確信する。

 

 約束事を破ったものに対して罰則を与えるという実力行使を、私人逮捕権などの拡大解釈によって自由化した社会は、果たして安全かつ快適な社会と言えるだろうか。自由な個人の自衛権を守るという建前で、銃規制がいまだに行われないアメリカ合衆国などの例を見れば、答えは比較的簡単に出るような気がする。

 

 実力行使は正当な機関に独占させるべきであり、実力行使を独占しているからこそ、その機関は権力すなわち人々の生殺与奪の権を握るのである。 ここで注意すべきは、皆が守るべき約束事が、人々の意志に沿って成立していることが不可欠であると同様に、実力行使を独占する機関には完全なる正当性が求められることだ。 実力行使を独占する機関の正当性は、皆が守るべき約束事と同様、それが成立する過程が人々の意志に沿っていることであり、またその機関に対する不断の点検によって担保される。

 

 権力は、人々の生殺与奪の権を握ることで、人々に対するほかには見られない絶大な影響力を持つゆえに、あらゆる手段を講じてごく一部の利害に利用しようとするものが後を絶たないのが現実である。 権力は、何よりも腐敗に馴染みやすい宿命を背負っている。 この、必要悪と言い捨ててしまいたい、権力という機構を、正当かつ健全に保つには、構成員の定期的刷新と、そして何より人々による不断の点検が必要なのである。

 

 権力は、その本質が暴力であるがゆえに、暴走させてはならないのである。