「見るべきほどのことは見つ」と言い放ち入水したのは平の知盛。 平家物語壇ノ浦の段ハイライトの一つだ。

 

 講釈師見てきたような嘘をつきというから、知盛が本当にそういったかどうかはあてにならない。

 

 この一節を唐突に思い出したのは車の中。 

 買い物に行く途中ラジオから流れたウイーン少年合唱団の番組を聞いてのことだ。

 

 創立525年になるという合唱団、以前は素直にきれいな歌声だと聞き流していたのだが、その日はそういかなかった。 歌声の美しさの前に、団員がすべて声変わり前の少年男子だという事実に、言いようのない気味悪さを感じてしまったのだ。

 

 音楽性の前に、第一義的に性別と年齢のフィルターが立ちはだかる、強烈な違和感だ。 この違和感は、近頃つぎつぎと明るみに出る性加害と無関係ではないと思う。 知らぬ存ぜぬの鉄面皮も相当数世にはばかっているが、一度見てしまったことは、見ないことにはできないのが一般人だ。

 

 平の知盛を描いた平家物語の作者は、滅びゆく武家一族の悲哀に、武辺の潔さを絡めて壮大なメロドラマを書いたわけだが、それにしても「見るべきほどのことは見つ」とはいかにも底が浅い。 平家物語の舞台となった時代にあって、見るべきほどのことを見てしまったなら、もっと辛辣なセリフなり生き方(死に方ではなく)があったろうに、とへそ曲がりは思う。

 

 BBCはウイーン少年合唱団に「もしや」の視線を向けるだろうか。 それとも五二五年の歴史の前に拍手だけを送るだろうか。 ちなみに日光東照宮の三猿は、穢れにつながる物事を見ず聞かず言わず、という意味らしい。 何事もきれいごとで終わらせるのが世のためだというありかたで、へそ曲がりにはただ腹立たしいだけだ。