ー 年末から ー

 

 いくつかのことを確認しておこう。

 

 今の、少なくとも昨日から今日への世界は、金銭と権力(枝葉を払えば一つにまとまるのだが、ここでは便宜的に二つを立てておこう)に対する渇望=欲を、無制限に認めるという価値観に、支配されている。

 

 現状、要するに今の世の中のありかたに、何の不満もないのであれば「意見」というものは意味をなさない。なぜなら、すべてのことに対して「応」と答えればそれで済むのだから。

 

 個人では、いやいかなる組織に頼っても、世界にあふれる情報=データ=出来事=事実を網羅し評価・処理することは不可能である。

 

 ここで、私的な想像を加える。

 

 今の世の中に支配的な、「欲」を「自由」とはき違えた価値観に違和感を持ち、もしくは異議を唱える人々の「数」は、過半数をはるかに超えているのではないだろうか、という想像である。

 

 そしてある問いを立てる。

 

 「欲」を中心とした価値観に反対する人々が、数の上で優勢であるのに影響力においては劣勢であり、現在の価値観が覆らないのはなぜなのか。

 

 ここから先は私見である。

 

 世界に対して批判的である人々は、その姿勢が批判的であるために、同じく世界に対して批判的である他者に対しても、その批判の細部に対して批判的になりがちである。 であるがゆえに、目標を前にして協働姿勢がとりづらいという、根本に自家撞着的な問題を抱えている。 そして、自らの批判行動が論理的に正確であるべきという潔癖症に囚われ、処理不能である事実の森から抜け出せなくなる。 批判勢力が右往左往するのをしりめに、「欲」を奉ずる者どもは手段を択ばす細部の相違などものともせず、結束して目標達成に猛進する。

 

 これが、仕組みだ。

 とおもう。

 

 ○○は賛同者のみならず、それに対する熱心な反対者によっても支えられている。

 

 人類の堂々巡りは、終わらないのだろうか。

 

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 ー 年始へ ー

 

 仏教に三毒という言葉があります。

 最古の経典と推定される南伝パーリ語のスッタニバータには、貪・瞋・痴を 克服すべき人間が根源に抱えた煩悩である、とあります。

 

 貪 飽くなき貪りの心

 

 瞋 怒り憎しみの心

 

 痴 真理を知らない あるいは知ろうとしない心

 

 紀元前四世紀にはもう経典に記されていた、われわれ人間の根本的な煩悩は、単純であるがゆえにたやすく克服できるものではないのかもしれません。

 

 日々自分の中にある三毒を確認しつつ、何とかそこから抜け出たいと繰り返し願うことしか、いや願い続けることこそが最短の道なのかもしれません。

 

 がしゃくしょしょうしょあくごうかいゆむしとんじんち

 じゅうしんごいししょしょういっさいがこんかいさんげ