依存と疎外・体制と個人 4

 

 

 承前

 

 道徳と愛国という、強力な習慣性のある毒をもって、清廉潔白・無垢である模範市民を、ナショナリズムに包含していく、この、危険極まりない罠を避けて通るには、ただ一つ、自分が何者であるかを自らが問い、結論を出し、自己を確立する他ない、と痛切に思う。

 

 結婚して子供が生まれ、育っていく道すがら、これ何、なんで、という問いを数えきれないほど浴びせられた。 ある程度までは誠実に対応していても、最後までは根気がもたない。 それはネギだよ、ネギだからさ、という無意味で不条理な術を編み出し、ことあるごとに多用したので、親戚の子等からはネギおじさんと呼ばれた。

 

 経験値を持たない子供の問いは極めて原理的で、一気に物事の根源に迫ろうとする。 学校教育と社会を通じて、自明という垢をため込んだ大人にとっては、超絶的な難問だ。

 

 長い時間をかけて大人がため込んだ自明という垢は、そのほとんどが借り物だ。 どこから借りてきたのかを本人が知っていればまだ救いがあるが、だいたいは無自覚で、自分オリジナルだと思いこんでいる。

 

 近頃よく耳にするアイデンティテイーという言葉など、その最たるものだ。 調べてみると、自己同一性とかいう意味不明の訳語があてられている。 訳語の解説めいた文には、自分が何者であるか、と書いてあった。

 

 アイデンティティー=Idenntityは、Idenntify (アイデンティファイ) の名詞形だ。 このIdenntifyという単語は意外なところでなじみがある。 UFOだ。 Unidentified Flying Object (アン・アイデンテイファイド・フライング・オブジェクト) の略語で、未確認飛行物体と訳されている。 何者であるか特定するのがIdentfyで、その特定できる要素・要件がIdentifyだと解釈した。 比較的わかりやすい。

 

 このアイデンティティーという言葉で表されるのは、自己と他者を隔てる決定的な要件を確認することで自己を確立できる、という考え方だ。 がしかし、これには大きな落とし穴がある。 他者との対照でしか自己を確立できないからだ。 他者の存在がないところで、自己は常に宙ぶらりんで不確かな存在でしかない。 従って自己の存在を確認するために、常に他者を必要とせざるを得ないことになる。 ここでの自己確認は、根源からは程遠い表層でしかないわけだ。 子供たちの素朴な問いにはとても耐えられない。

 

 自分が何者であるかという問いは、自らのためにある、と思う。 その問いを自主的に立てることができたとき、何処そこの誰々という、人の属性がいかに頼りないものであるか、初めて気が付く。 即ち、疎外の主体である集団=社会を、相対化することができたのだ。

 

 疎外し阻害する社会を相対化することができれば、依存が必要でなくなる。 そこで獲得したのは、精神の自由であり、国家からの自由でもある。 たぶん、国家以外の依存も必要なくなるに違いない。

 

 

 おわり