それこそ、無限大に、あらゆる体験を創造してしまったので、あらゆる体験を味わってしまった。
我が家は来客が多くて、いささかうんざり。私が応対することはないのだが、出迎えするのも大儀。
お客さんはなにかしら食べ物を持ってくるのだが。
あまりにも続くと、わが身が乞食になったように感じる。
台所の机の上に、食べ物が無造作に置かれていると、施しをうけたかのような。
まるで、「食べ物なら、なんでもいいのだろう」と、乞食になった気分だ。
なぜそう感じるかと言えば、私に好き嫌いがないこと、もらう食べ物が多岐にわたっていること。
苺であったり、果物であったり、旅先のお菓子であったり。
以前は大量の魚をいただいて、冷凍庫に食べきれないくらいあったので、断った。
私は乞食ではないぞ!と感じるのは、かつてそうであったことがあるからだろう。
私が晩御飯を作ったあとで、「これを食べなさい」と義母から大量に食べ物の差し入れをされた時などは、
「お前なんかが作るご飯なんか、食べるに値しないだろう」と馬鹿にされているとしか思えなかった。
自分が食べた弁当の残りをよこしてきた時など、そこまで飢えてないとすごく腹が立った。
私がなんでも受け入れると決めたからといって、ここまでなんでもありだと、さすがに疲れるし、頭が混乱してくる。
そろそろもう、こういう世界!を決めるときなんだろうね。
ああ、私自身も、虚空に消え去りたい。
我が家は来客が多くて、いささかうんざり。私が応対することはないのだが、出迎えするのも大儀。
お客さんはなにかしら食べ物を持ってくるのだが。
あまりにも続くと、わが身が乞食になったように感じる。
台所の机の上に、食べ物が無造作に置かれていると、施しをうけたかのような。
まるで、「食べ物なら、なんでもいいのだろう」と、乞食になった気分だ。
なぜそう感じるかと言えば、私に好き嫌いがないこと、もらう食べ物が多岐にわたっていること。
苺であったり、果物であったり、旅先のお菓子であったり。
以前は大量の魚をいただいて、冷凍庫に食べきれないくらいあったので、断った。
私は乞食ではないぞ!と感じるのは、かつてそうであったことがあるからだろう。
私が晩御飯を作ったあとで、「これを食べなさい」と義母から大量に食べ物の差し入れをされた時などは、
「お前なんかが作るご飯なんか、食べるに値しないだろう」と馬鹿にされているとしか思えなかった。
自分が食べた弁当の残りをよこしてきた時など、そこまで飢えてないとすごく腹が立った。
私がなんでも受け入れると決めたからといって、ここまでなんでもありだと、さすがに疲れるし、頭が混乱してくる。
そろそろもう、こういう世界!を決めるときなんだろうね。
ああ、私自身も、虚空に消え去りたい。