映画「福田村事件」鑑賞 | ジャーナリスト藤原亮司のブログ

映画「福田村事件」鑑賞

森達也監督の映画「福田村事件」鑑賞。

これはドキュメンタリーではないが、史実に基づいた虐殺事件を描いている。
関東大震災直後には、当時占領下にあった「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「婦女子を強姦」、「爆弾テロ」という意味の「デマ」が噂話だけでなく新聞によっても流れ、朝鮮人が日本軍や警察、民間の自警団によって殺された。

この映画で(この村で実際に)虐殺されたのは朝鮮人ではない。言葉の訛りで朝鮮人と疑われた香川県から来た日本人の行商人たちである。
彼ら自身が殺されそうになったとき、「この人たちは朝鮮人ではないから殺してはいけない」とかばう数少ない日本人に、行商人のリーダーである男が「朝鮮人なら殺されてもいいのか!」と憤る。この場面は、事実であるかどうかは分からない。

私の身の上に起きた出来事を話す。
東日本大震災が起きて一週間も経たない頃、私は東北の漁村にいた。そこは津波と崖崩れで一週間以上道路が寸断して孤立し、電気もないためテレビも観れず、なんの情報もなかった。
しかし、漁船や個人で崖崩れの道路を越えてきたわずかな人たちのもたらした噂話だけはあった。

その漁村に続く道路が再開されて早々、わたしはその村に入った。
津波被害に遭った漁港を撮影していると、モリ(ヤス?)や野球のバットなどを持った7〜8人の男が走ってきて、地面に引きずり倒された。
「お前、中国人かっ!何を盗りにきた!」
その数日前に取材をしていた町でも、「中国人窃盗団が盗みを働いている」という噂(デマ)を聞いていた。

その「漁港」は100戸ほどの小さな村とはいえ、平時なら東北最大の都会まで車で1時間余り、そこそこの都市までも30分もあれば行く。「ど田舎」ではない。
彼らの「教育」や「常識」のレベルは、「都会人」となんら変わりはないはずだ。

そんな場所でも震災に遭い、たった一週間情報が閉ざされたら、人間はどれほど理性を失うのかと改めて思った。
もし自分が、中国人でなくても日本語があまり上手くないアジア人メディアなら、また日本の運転免許証やプレスカードを提示できなければ、「中国人窃盗団」と判断され、ただでは済まなかったかもしれない。

映画「福田村事件」を観て思うのは、自分たちはもう知識や知性、理性や常識を身につけているという自分の「正しさ」を疑え、ということでしかない。
福田村で起きたこと、関東大震災の被災地各地で起きたことは、いまも、未来も、「賢くなった」と思っている人間の身の上に起きる。仮に自分が当事者になれば、自分だってやりかねない。
そしてそれは今、世界の紛争や抑圧、災害が起きている地域の中で、人々が「正しい」と思ってしていることでもある。