信原孝子医師の訃報 | ジャーナリスト藤原亮司のブログ

信原孝子医師の訃報

昨日、ジャーナリストの小田切拓氏より、ある人の訃報を聞いた。
信原孝子さん。医師で、かつてパレスチナのPLOがレバノンに拠点を置いていた頃、サブラ・シャティーラ・パレスチナ難民キャンプの病院に身を置き、イスラエル軍の支援による民兵の包囲の中、様々な意味での身の危険の中で、それでも可能な限り治療に努められた女性である。その後、シリアのヤルムークにあるパレスチナ難民キャンプでも、医療奉仕を続けられた。

彼女はつい数週間前まで私にシリア情勢を教えてくれと電話で長話をし、シリアのヤルムーク・パレスチナ難民キャンプにおける惨状を気にかけておられ、何とかシリアに入る手立てはないか、と問われていた。ご自身はがんで余命いくばくもないにも関わらず。
外務省からはPFLPや日本赤軍との関係を疑われ、パスポート発給を拒否されたが、彼女自身はそんなイデオロギーとは無縁で、単に医師として困窮状態にある人々を助けたいと思って現地で活動をされていた。
しかしそれは、日本政府や外務省には理解してはもらえなかった。

彼女は自分の医師としての身を常に人間の日常と、そこに生きる人々に寄り添って生き、自分自身の価値など省みたことがない。
そんな彼女の生き方に敬意を抱く。
最期まで、ご自身の身を「現場」に置き、あるいは「弱者」や「傷を負って、それでも生きていかなければならない人々」に寄り添い、その生涯を全うされた。

晩年を、私が生まれ育った大阪の町で過ごされた。地元の寂れた喫茶店でお会いしたときのことを思い出す。
「あなたのルポを書きたい」と言ったとき、こっぴどく叱られた。
「私がパレスチナに関わってきたのは、私が主人公になりたいからではないんだ」と。
「あなたの仕事を、しっかりやり続けなさい」。別れ際に、彼女はそう言った。

2008年だったか。私は取材でカザに暮らす元PFLPの兵士だった女性、ドクター・マリアム・アブー・ダッガを訪ねた。
若い頃、彼女はレバノンでイスラエル軍と戦っていた。取材中、彼女は「日本人女性のドクトル・スアードを知っているか?」と言った。
思わぬ名前が出て驚いて問うと「私は彼女を
姉のように慕っていた」と話した。

「スアード」という名で呼ばれていた、医師の信原孝子さん。彼女はその人生の多くを、レバノンとシリア・ヤルムークでパレスチナ人への医療奉仕に捧げた。
「前線から戻るとよくドクトル・スアードを訪ねた。小さい体で細いのに、私の体をマッサージしてくれた。戦闘服は汗臭いからいいって言うのに、長い時間」

PLOがレバノンから追放され、彼女も出国した。それ以来、信原さんとは会っていない。彼女はブルガリアの大学に入り、その後ガザに戻った。銃は持たなくなったが、今も自分は兵士のままだという。イスラエルへの抵抗に終わりはないと。

帰国し、大阪で信原さんと会い、ドクトル・マリアムのことを伝えると、「ああ、あの子、生きとったんか…。まさか、ガザに帰れたとは…」と目を細めた。マリアムから聞いた「その後の人生」を話すと、「ああ、大学にも…。頑張ったんやな」と。
「そうか、あの子は今も戦ってくれてるんか」と感慨深げに言った。

帰国後、パスポートの発給停止のため、信原さんは長年海外に出ることはできなかった。再びパレスチナの人たちと関われないことは、どれほど悔しかっただろう。
しかし、日本で多くの人たちにパレスチナのことを伝え続けた。ずっと、生涯をかけてパレスチナの人たちとともに生きた。

ご冥福をお祈りします。