車を降り外に出るとまだ早朝だというのに、じわっとした暑さが俺の体に纏わりつく。外に出てわずか数秒しか経っていないのにもかかわらず額には薄っすらと汗が滲んできた。俺はこの纏わりつく空気から逃げるように事務所の中に入っていった。
あの時、あの雨の中で俺の時間は止まってしまった。
だけどそんな事はお構いなしに時は流れて季節はいつの間にか夏になった。
ただ一人…あの日の俺を置き去りにしたまま。
「暑ぃ」
事務所に入ると俺は額の汗を手のひらで拭いながらいつものスタジオへと足を運ぶ。
スタジオのドアを開けるとソファに寝転ぶスンリの姿を見つけた。俺の気配を感じたのかスンリは眠たげに目を擦るとゆっくりと体を起こした。
「ジヨンヒョン?」
「おはよ」
そうだ。昨日はスンリのレコーディングに付き合っていたがその後、別の仕事が入っていたから俺は先に切り上げて帰らせてもらったんだ。
スンリはぐっと腕を上にあげて伸ばすと
「んーーっ」と鼻で息を吐きソファで寝て硬ばっている体をほぐした。
「ヒョン、今日休みじゃなかった?」
部屋に備え付けられているコーヒーメーカーの前に立ちながらスンリが尋ねる。部屋の中にコーヒーのいい香りが漂って俺の嗅覚を刺激してくる。俺はパソコンの前に座ると電源を入れて明るくなった画面を見つめそこから視線を離さずに答えた。
「うん…あ!スンリ、俺にも」
「了解」
スンリは快く俺の分のコーヒーも淹れて俺の目の前のテーブルの上にそっと置いた。
「ヒョン、休みの日にも仕事?」
「うん、まぁ」
パソコンのマウスを操りながら空返事をするとギシッと椅子が軋む音がして俺は目線だけ音が聞こえた自分の右側へと向けた。スンリは回る椅子に座り足で器用に操りながら右から左へと自身の体をクルクルと回していた。
「…帰んねぇの?」
別にスンリと居るのが嫌だとか居心地が悪いとかそんなんじゃないけど、用もないのに隣でクルクルと回わられてたんじゃ、集中できなくて気が散ってしょうがなかった。だけど、スンリはそんな俺の言葉を見事に無視して話し掛けてくる。
「ヒョン、最後に休んだのはいつ?」
「……知らね」
そう言って誤魔化すように答えるとスンリは
クルクルと回っている椅子を止めて俺の方へと体を向けた。
「俺は知ってるよ。ヒョンは休んでない!ここ最近……いや、ずっと!…うん、ずっとだ!ずっと休んでない」
俺はジロリとスンリの方へ目線を送ると「ほっとけよ」と言ってまたパソコンへと視線を戻した。それでもスンリは「でも…」と言葉を続けようとしていたが俺はその言葉を大きな溜息で搔き消してやった。スンリは唇を尖らせて何かをモゴモゴと言っていたが、それを見て見ぬフリをして俺はだんまりを決め込んだ。
「スンリの言う通りだ」
部屋のドアがガチャリと開き、声がした方に視線を送るとそこには腕を組んでこちらを見つめるタッピョンの姿があった。
「皆、心配してるぞ。最近のジヨンは頑張り過ぎだって。それに疲れた顔してる」
タッピョンはゆっくり歩きながら近づき俺の後ろにあるソファにドカッと座った。俺はタッピョンに向きを変えて唇を尖らせた。
「疲れてねぇし。頑張るのは、悪い事じゃないだろ」
そう言って俺はまた体をパソコンの方へと向き直した。
「確かに悪い事じゃない。けど、周りに心配をかけてる、それはあまり良くないぞ」
タッピョンの言ってる事は解る。
もちろん、スンリが心配してくれてるのも。
だけど今は仕事をしていたい。
仕事をしている時は何も考えずに
g-dragonでいられる。
強いGDでいれば何も考えなくて済むから。
「…わかってるけど、今は仕事をさせてくれよ」
俺はパソコンで作業する手を休める事なく自分でも聞き取れるかわからないほど小さな声で呟いた。タッピョンは暫く黙ったままだったがスッとソファから立ち上がると俺の肩に手を置いた。
「…わかった。けど、息抜きは大事だぞ?たまにはいつもの奴らとクラブでも行ってこいよ、好きだろ?それにアイツ等寂しがってたぞ。今日くらい連絡してやれ」
タッピョンは静かな口調で話し、優しい瞳で俺を見つめていた。こんな風に優しく見つめられると、確かに消したはずのこのみの瞳を思い出して、また胸が苦しくなった。俺はその苦しくなった胸に気づかなかったフリをして後ろに立つタッピョンを見上げ「わかった…」と答えると小さく首を縦に振った。
* * * *
ガンガンに流れる音楽が好きだ。
何も考えなくて済む。
ただ音楽に身を任せればいい。
久しぶりに飲んだ酒は俺の体の中をゆっくりと巡ってとても心地の良い感覚を連れてきてくれた。
俺はテーブルの上にショットグラスをガンと音を立てて置くと目の前にいるバーテンに向かって空いたグラスを指差し「同じの」と次を求めた。
「ジヨン、大丈夫か?飲み過ぎじゃねぇ?」
友人の一人が心配そうに声をかけてきた。俺は「そんな、飲んでねぇよ」と目の前に出されたショットグラスを持ち上げるとそれを一気に喉の奥へと流し込んだ。アルコールが通った所が熱くなる。喉がキュッと締まるのを感じて俺は口から思いっきり息を吸い込んだ。
「ちょっとトイレ」
そう言ってその場を離れて人波を避けながら歩くと自分が縦にフワフワと揺れているようでその揺れを感じて、俺は確かに酔っている事を自覚した。
目的の場所に着き用を足し終わり手を洗って目の前の鏡に映る自分を見た。
無精髭が生えて目の下にはクマ。
おまけに久々の酒のせいで目は完全に座っている。タッピョンが言った通りこれは完全に疲れた顔だ。
あれから眠れない毎日が続いている。
眠れないからクタクタになるまで仕事をして体が限界になるまで起きている。そして限界がきたら泥のように眠りに就く。そうすれば夢を見ずに眠る事ができる。
俺は鏡に映った自分に小さく微笑んだ。
笑える。
最後に泣いたあの日から涙を流す事もなく、いつも通りの生活を送っている。
ただ心にぽっかりと空いてしまった穴に見ないフリをして、彼女に出会う前の俺を思い出しながらいつも通りの俺を演じている。
まるでロボットのように何も感じない。
楽しいと感じる事も、悲しいと感じる事もない。
「誰だ、お前は」
鏡の中の奴に問いかけると、彼はただ笑ってこちらを見ているだけだった。
if you 第25話
※画像はお借りしました。