こんにちは。千葉です。

さて、ですね。昨日のご紹介でもある程度言いたいことは言ったのですが、もう少しだけ。本書が冷静に提示する日本の核利用におけるなし崩し的夢想的展開を知ることも、本当に重要だと思います。悪夢を呼び込むのはこういう無用心なやり口なのだ、と見事なまでに反面教師となってくれていますから。もっとも、東京電力や政府・行政、原子力村などの当事者各位は未だにこの無様な失敗を認めようとしていないみたいに見えますが。

おっとすみません、このような悪罵を監視者の方に(笑)投げつけるためにわざわざ今日も取り上げているのではありません。本書の終盤で展開される有益な指摘の数々についてご紹介したかったのです、そのためには引用を多くせざるを得ないため、今日に回した次第、というわけで。

新版 原子力の社会史 その日本的展開 (朝日選書)/吉岡 斉

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まずは本書の旧版p.272~273より引用。著者が参加して経験した高速増殖炉懇談会についての進め方など細部に渡る言及の後に、このような指摘がなされます。以下引用。

 ところで、こうした内容の勧告を導くに際して、高速増殖炉懇談会報告書が採用した論理構造は、きわめてファジーなものであった。公共政策に関する報告書では、中立的な判断枠組みを採用しなければならない。つまり複数の選択肢を立てた総合評価の様式を採用する以外に、適当な方法はない。それ以外の様式ではどうしても、評価の枠組や評価の項目が、片方に有利な形に歪みやすいからである。この政策判断の様式はアメリカでは、政府機関の諮問委員会が政策的な勧告をおこなう際の標準的な様式として、すでに確立しているものである。そこでは次のような手続きが取られる。
 1.有力と考えられるすべての政策オプションを列挙し、
 2.それらの優劣を評価するための包括的なクライテリア(基準)の体系を示し、
 3.一つひとつの政策オプションの利点と欠点を包括的に検討し、
 4.最後に最善の政策オプションの実施を勧告する。
 残念ながら今までの日本の原子力政策において、このような様式に基づく政策決定が行われた例はない。どんな開発計画についても、開発推進という結論を導くのに有利な論点を並べ、その一方で不利な論点を無視したり、仮にその一部について言及する場合でも、それが高い可能であるとの希望的観測を根拠としてそれを否定し、結論として開発推進を正当化するという様式が取られてきた。そうした前近代的な様式から脱皮し、上記の総合評価の様式を今後、標準的な様式としていくことが、合理的な公共政策上の判断のために必要である。そのことを筆者は、アメリカの実例をあげつつ、懇談会で毎回のように執拗に主張したのだが、本文の論理構造としては結果的に採用されなかった。
(引用終わり)

そうなんです、日本で官民を問わずこういうプロセスが存在しないことがどれだけの不信感を呼んでいるか、当事者各位はおわかりでない。完全な客観など存在しませんが、可能な限りの努力をした、と納得してもらえるよう務めることはできるはず。というか、しなければ反対者には引き下がってもらえませんよ、普通。

加えて、著者はこういう指摘もしています。同じく旧版p.293より。

 ここで歴史的アセスメントというのは筆者独自の概念なので、ここで(ママ)最小限の説明を加えておこう。歴史的アセスメントの眼目は、原子力政策が歴史の各時点において、「公共利益」からみて最高の知恵をもって、決定されてきたか否かを解明することである。そして誤った判断を下したと思われるケースについては、なぜ誤った判断がなされたのかを解明することである。その際に重要なことは、現在の高みから過去の政策判断を(結果論に照らして)裁くのでは決してないということである。各時点において発揮しえたと想定される最高の知恵に照らして、それぞれの時代の政策判断の妥当性を評価するのである。こうしたアプローチを採用する限りにおいて、現在の政策も当然、歴史的アセスメントの正当な対象となる。そこでは現時点において、発揮しうる最高の知恵に照らして、最善の判断がなされているかどうかが問われる。この点において歴史的アセスメントは、方法論としての普遍性を主張しうる。(後略、引用終わり)

この歴史的アセスメントという概念、千葉が録音の感想を書くときにできるだけ録音年代を書き記し、その時期の演奏スタイルやいわゆる主流のアプローチを一応は踏まえておくのと同じかも、と感じました(笑)。
冗談はおくとして、このアセスメント意識さえあれば、官僚システムの無謬性神話など容易にうち壊せるでしょう、過去を否定するのではなくその時々の限界を認識した上での、後世からの修正を許容しうる形になるはずですから。「先達が決めたことだから」と信じて突き進むのもいい、時もあるのだろうけれど、それ一本やりでは新たな検証済みの知見は、誤っている現実を変えるための道具に決して成り得ない、という不思議な呪縛を進んで受け容れることになってしまう。世界認識の方法が変わったのだから、かつての認識に基づくアプローチの問題点が見えてくるのは自然なことだし、その上で現実をよりいい形に修正していくのも自然なこと、ではなくて?それは先ほど触れたように音楽へのアプローチなどでも同様だろうし、それ以外の少なくない事象に適用可能な物の見方だと思うのだけれど。
こういう認識あればこそ、官僚的な仕組みの効率化も可能になるし、可塑性を持たせつつ行政を運用できるのではないかと思うのです。もちろん、この手法が全てを解消するわけではなくて、このシステム導入後は不勉強が厳しく戒められるようになるでしょうから、よりよいあり方を模索する形で政策や運用の改善がなされうる可能性が、今よりはあるのではないかなと大いに思いました。

さらに引用です、p.294より。ここはですね、今まで千葉が付してきたような普遍性への展開どうこうではなく、率直に原子力行政への疑問が示されています。以下引用。

 ちなみに、原子力発電事業推進の公称理由として、今まで使われてきた主な論点は次の六つである(ただしこれらは原子力委員会が長期計画などの報告書で示してきた公称理由に限られる。他にも電力業界やジャーナリズムなど、多くの団体や個人が、それぞれの公称理由を宣伝してきた)。
 1.原子力は石油よりも外貨節約効果がある(五〇年代~六〇年代前半)
 2.原子力は経済性のあるエネルギーである(五〇年代~九〇年代前半)
 3.原子力は安定供給エネルギーである(六〇年代後半~現在※)
 4.原子力は「石油代替エネルギー」の中核である(七〇年代後半~現在※)
 5.原子力は「準国産」エネルギーである(七〇年代後半~現在※)
 6.原子力はクリーンである(八〇年代後半~現在※)
 これらの論点はいずれも、メリットとしての正確な評価が難しい。なぜならそれらの論点のなかには、理性よりも感覚に訴えるものがいくつか含まれており(石油代替、準国産)、それ以外の論点についても、将来についての希望的観測や、一面的な判断に立脚しているものばかりだからである。もしこのような脆弱な理由の羅列にもとづいて、現実の政策判断がなされてきたとすれば、その非合理性は目にあまるものがある。さらにいうならば、時代とともに公称理由のなかで強調される論点の優先順位が変化し、プロジェクトの種類によって、主な公称理由が二転三転してきたにもかかわらず、そうした公称理由の変化に影響されることなく、つねに「安定的・包括的拡大」という結論が勧告されてきたのも不自然な話である。(後略、引用終わり)

※執筆時点での現在なので、90年代と認識すべきと思われるが、内容を鑑みれば現在、少なくとも2011年3月11日以前には十分適用可能であると思われる

このパラグラフで指摘されている原発の安定的・包括的推進、平たく言ってしまえば半ば盲目的でもある程に強い自走性を持って「発展」してきた原発行政そのものの姿勢への不信感を、ある程度以上の説得力をもって解消できる推進論者はいらっしゃるのかしら?本書で指摘されていることのなかで千葉には少し意外に思えたのは、日本以外の各国ではセラフィールド、スリーマイル、そしてチェルノブイリを経験したことで原発の経済性どうこうよりも安全性への不信感から原発への注力を減らしていた、という事実です。繰り返しになりますが、本書旧版は1999年の出版ですから、全世紀末の時点である程度は衰退、収束への道が見えていた技術だったようなんです、原子力発電。それなのに日本ではあの地震の直前まで上で言うところの6.、クリーンエネルギーとして宣伝が続けられていました。千葉も自戒を込めて言いますが、「チェルノブイリはソ連だから起きたことだ」、なんて思っている場合ではなかったのですね…その他者の経験への想像力のない態度が、今こうして無策なのにまるで対策が進んでいるかのような虚勢として現れるわけです、なんとも愚かしい…

よく上で言う2.、5.、6.の論点をもって「それでも原発は必要」という言い方がなされるのをこの数カ月見てきました。メリット/デメリットどうこうとか、ときに倫理的な性格を帯びた過去の消費生活への反省とか。
あのう、もうちょっと現実的に話しませんか、それこそ上記の指摘のような、あとから検証可能であるような論理性をもったアプローチで。というのが、本書を読んで一番感じたことなのです。もし原発推進が昨今明確に言われるようになったように核兵器保有への色目込みだったのだとするなら、もう諦めるべきです、高速増殖炉ともども。希望的観測でつき進んだ結果が、日本各地にダーティボムになりうる施設を配しただけのこと、なんですから。その「ダーティボム」予備軍はお手製ときているのだから始末が悪い…

と、ですね。本書で示される知見からはいろいろと学べるところあるのではないかと思います故、本日重ねてオススメさせていただきます。未来はもう決まっている、変えるなんてことありえない!という従来のやり方を正すことでしか、あの厳しい状況を正の方向に転化することはできない、と日々思っている千葉には本当に響くものでした。
以上長くなりましたし、日付は変わってしまいましたが本日はこれにて。ではまた、ごきげんよう、おやすみなさい。