こんにちは。今日はやはり、この件に触れないと。その前に、まずはリプレイから。
 

 

 


今日はTPP関連法案と働き方改革法案とかいう雑な法律が定められた日として記憶されるべき、です。…ブログ消さなくてよかったな、と思うのはこういう時ですね。おかげで私は五年前にもこのように申しておりました、と胸を張れる。もっとも後者、働き方改革とかいう法制は予想もしていなかったので触れたことはありませんけど。

前者、TPPについての考え方は過去の文章に足すこともあまりないかと思うので、お時間のある方はリンク先で読んでいただければと。ああ、でも「アメリカ抜きの」TPPになったことはさすがに予想していませんでしたね。トランプ政権誕生の3年も前の記事だからそれは仕方ないでしょう(笑)。アメリカとの関係で言えばむしろ二国間協定こそが危険なルートですから、そちらが政策的俎上に乗るような日が来たらきちんと書かないといけないでしょう。そのための調べ物の量などを想像すると今から気が滅入りますが。

そして後者、働き方改革ってののデタラメさはなかなか凄いもので。評するには先程書いたとおり、「雑」としか言えることがないんですよ、あれ。まともな立法事実もなく、法制定のための前提として提案者が出してきたものはほとんどすべてが虚偽や捏造が判明して崩壊している。それでも「今国会の再重要法案」と位置づけたから、政権の支援者である経団連からの長年の要望であるから、いま決めてしまう。批判が多いことくらいは流石に認識している、だから山盛りの附帯決議を誰かの言い訳のためにつけて採決してしまう。毎度おなじみ、数の上では多くの賛成が得られているのだから「手続き上は瑕疵がない」ことだけが法制定の正当性を保証する、安倍晋三第二次政権のやり方ですね。
そこになにかの新しさがあるとするならば、国民民主党という政党がかつての民社党の立ち位置にあることを明示した、ということだけでしょう。あの政党が議席数は多いのにまったく支持が集まらない理由もそのあたりにあるのだと、否応なく理解しました。手続きの正当性を保証するために、「強行採決ではないのだ」と言えるようにするためだけに審議に協力してしまう自称野党、是々非々と称しながら根本的に受け容れ難い何ものかさえ許してしまう、根幹なき政党。”野党がダメ”なのではない、と日頃考える私ではあるけれど、こういう政党には存在意義がない。維新の党とおなじく、自民党になりたいなら頭を下げて入れてもらえばいいのでは?とのみ申し上げておきましょう。

きっと今晩からしばしは蹴球の大会に多くのスペースを割かれてしまい、ほとんどまともな検証が期待できないだろうことを当然のように予想して、今晩は〆ておきましょう。ではまた。

 

心機一転

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こんにちは。このブログは以前の使命を終えたと考えアーカイヴとしてのみ残してしていましたが、これからまったく性格を変えて続行することにしました。以前の内容でおつきあいいただいていた皆様には申し訳ないことですが、ご容赦いただければと存じます。クラシック音楽の話はまた他所で、ということで…

さて、では性格を変えて何を書くのかと言えば、文字通りのよしなしごとにございます。ジャンルを決めず、とは言いながらおもに時事的な事柄について書く場所にしようと考えています。Twitterに書くにはややこしい事柄を、相応の長さできっちり書く。うん、私は字数の制約なく書き込めるブログがそれなりに好きなのですね。最初はお仕着せでしたけど、それも長年の付き合いとなれば変わってくるものです(笑)。
ただし。黙っているのもこれ以上は堪え難い、そんな事柄が多いのであまり楽しいものにはならないだろうことをリスタートに際して申し上げるのはなんとも心躍らないものですけれど、それが現在なのであれば如何ともし難きこと。そう、そういう事も含めて記録しておくことに何らかの意味があればいいな、と考える次第です。

そうですね、今日この日の記録として書くのだったら「党首討論を見て思う、いつから国会が幼児の口喧嘩になったのか誰か教えてくれよ」ということになるでしょう。いや、党首討論なんて、持ち時間さえ逃げ切れればいいセレモニィでしかないのは以前からだから、なにも現政権になって劣化したとか言い立てるのも無駄なこととも思える。でもね、やり取りが中学生の生徒会レヴェルにすら達しないそれを見て、落胆さえもしなくなるのはまずいですよ、近代国家のいち国民としては。

”国会ではあれじゃなくてこれをやれ、もっと大事な議論があるだろう”、そんな一部の人たちが話を逸らすために持ち出すお決まりの物言いすらまともに思えてくるほどの、幼児的な返答を繰り返すしゅしょーの姿はつい舌足らずな声で「がんばぇー!」と声援を送りたくなるものですよ。もちろん皮肉ですけれど。
あれはですね、耐えられる範囲で一度でいいから、ノーカットでご覧になることをお勧めしますよ。NHKの編集版では楽しめない、論理と言語の崩壊感と戯れる卓越したアトラクションですからねしゅしょー答弁。あの発言を受け止めて再質問できる議員の皆様には正直感服するのだけれど、私は優しくないから「意味がわかるようにもう一度お答えいただけますか?」って繰り返し同じ質問をするでしょうね、きっと。…そうしたらあの返答を繰り返してくれるのかな、同じ内容で。それができるなら、彼はもはや異能者ですね、あはは。

もし、全編をご覧になろうと思われた勇者様がいらっしゃいましたら、衆議院が提供しているこちらでご覧いただくのがよろしいかと存じます。コメントが付けられる配信サイトや、誰かが編集してテロップを付けたのではないライヴの恐怖、一時間に渡ってお楽しみいただけることでしょう。

この国で再び不条理文学が輝く日が来るならば、それはきっと喜ばしいことなのだ。そんな預言を説明なしに投げつけて本日はおしまい。ではまた。

あそこからあと一歩で

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一昨日から報じられている事件は、あまりにも酷くて「酷い」以外に言えることが何もない、と思っていました。だから亡くなられた方に手を合わせ、負傷された方の快癒を祈り、おそらくは関係各位の精神的苦痛のケアも多く必要であろうから、遺漏なきよう対応されたし、などと思っていたんです。

ところが、ですよ。あの事件は被疑者の言によれば彼なりの確信を元にした行為であるらしい。だが、それは明らかに反社会的な犯罪を裏打ちするだけのもの、その詳細を伝える必要はない。
考えてみてください、ハッキングもされていないのにテロリストの犯行声明を喜々として放送し、剰えごていねいに価値判断抜きで解説までしてくれる番組があったとしたら、それはそうとう反社会的なものではありませんか?

まずは酷い事件があったこと、それは人倫に悖るものであることを明確に示して否定して、その上で要素として抽出した上で、いわば毒抜きをした上でようやく俎上に載せることができるはずの毒物を、いまマスメディアはもてあそんでいる。その意味も影響もわからずに。
痛ましく、酷い事件だ。その根底にあるものが何かを探ろうとするのはいい、でもその際に気をつけるべき事柄はある。その程度の配慮をしないのは、もはや被疑者への共犯行為になりかねない、と自戒して無用な憶測や被疑者の主張の拡散を避けなければならない。そのくらいの注意深さがあって初めて取り扱える、下手をすると時代を画してしまいかねない危険な事件だとわからないのだろうか、といささか心配になる。

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メディアについてはそういう番組を無批判にご覧になっている人はそろそろチャンネルを変えて、名画でも見られることをお薦めしますよ。昼の時間帯ならBSプレミアムが平日には毎日映画を流していますし。「相棒」の再放送しか他に選べないなら、お散歩でも読書でも、音楽を聴くのでも演奏するのでもいい、とにかく無神経で危うい報道から離れたほうがよろしいかと。何故かといって、それはひとえに被疑者が素朴に信憑しているフシがある優生思想に影響されかねないから、です。あの素朴さは、”思想”と称してあげられるようなものではなさそうだけれど。

優生学は自分個人の視線を離れたある水準から社会、もうちょっと言うと人間という「群」を俯瞰して、恣意的な線引きを行うことで人を選別します。こういう文字どおりの上から目線(誤用)は、何が怖いって自分を例外視してしまうことですね。自分は線で引かれて不利益を被ることはない、だから冷静に「神の視線」で社会を、組織を、制度を見ることができる、そう思い込める。

こんなことを言うと「学問とか完全にそれっすよねwwwww」とか、なんというかコメントの語彙が数段低劣になるような反論が想定されますが、だから学問は慎重に根拠を、論拠を探って共有可能な認識をつくり上げるんですよ。思いついた事柄が論駁に耐えうるような、相応の強度のあるものとみなされるまで鍛えあげることが求められるわけですよ。相対性理論を思いつくだけなら他の人にもできたかもしれないけど、論証に足るだけの強度を持たせることができたのはアルバート大おじさまだったわけで(違)。

本題に戻りましょうか。なぜ優生学的なものはもはや認められないかといえば、その線引きにおける恣意の存在が許容されないから、です。誰がその線を、どのように引くかを考えたとき、あなたはどのように感じますか?線を引かれる側として考えるか、線を引く側として考えるかでその判断は変わり得るでしょうね、きっと。

「線を引く側」に自分がいる、という想定がすでにそうとう傲慢で脆弱なものなのですが、思考の中ではその弱さに気づくことは難しい。だってそこには他者からの反論がないのだから。自分に不同意の人さえも納得させうる議論を展開できなければならない、ではその納得の水準はどこまで高められる必要があるだろうか。不断の努力、繰り返される検討、それでも得られないかもしれない妥当を目指して研究とか議論は行われるわけですよ。どちらか腕っ節の強い方が勝つと白黒つけるためでは、けっしてない。もちろん、そこで殺意など抱いたらおしまいだ、その人の言も研究もすべて考慮に値しないものとなりましょうよ。

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どこかに線を引いて区別/差別を行うことに対して、この国は相当鈍感になってきているように思います。この線を引く場所を被疑者は障害の有無に置いた、そして犯罪者として裁かれることになるだろう。

では「憲法に基本的人権などいらない」という政治家はどうか?人間一般として生存権を保証する憲法を否定するとき、彼ら彼女らは人間上/中/下の線を引いているのに、そこは問題ないように扱われている現今、こういう短絡的な発想に基づく事件も起きましょうよ。せめて、それを助長しないように配慮していただくことは望めないのだろうか、と暗い気持ちで考える日々は始まったばかりですよ。

(なお、「憲法を変えることが党是=現体制を転覆することがモットー」の連中について何も考えたり願ったりしないのは、あの連中の発想を変えることは無理だからです。あしからず)