こんにちは。千葉です。

すみません、本当に遅くなりました。これをまとめるのに本気で苦労してしまって(それでこの程度買ってツッコミはなしで…)、気分転換に髪を切りにいけば忘れられるし、なんともこの二日間は運のない千葉であります。


さてと。キタエンコのショスタコーヴィチ、またしても厄介な作品ですね、今回取り上げるのはマジックナンバーを乗り越えて作曲された交響曲、第十番 ホ短調 Op.93(1953)です。

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第八番での「楽観的でない」作品との評価に続いて第九番で明らかに当局の期待を裏切ったあと、ショスタコーヴィチは交響曲からしばらく離れます。それはそうです、戦勝国として、しかし大祖国戦争後の冷戦下、党の意向を無視し続けられるわけもなく。ジダーノフ批判(1948)のような公的な攻撃もあった結果、プロパガンダ的用途に適した作品を公的に、本心を吐露できる場としての作品を弦楽四重奏を中心とした室内楽などの私的な作品に作り続けて行くようわけです。


交響曲第八番の頃からはじまったこの傾向、大戦後にはかなり強まったようで、実際この時期の傑作として挙げられるのがあのカンタータ『森の歌』だったりする。面従腹背、と簡単に言うこともできるでしょうけれど、簡単に片付けてしまうことに曰く言い難い抵抗を感じてしまう。言い切ってしまうと痛快な気持ちにはなれますけどね…

さてこの作品、器楽のみの四楽章の一般的な構成のもの、じゃあ簡単に説明できるかといえばさにあらず。千葉にはこの作品について詳しく追求すると学者になれるんじゃないかって思われますので(笑、でも千葉にはそう思えるほど見えている資料がある割に多々の説があってわかりにくい)、ここでは以下のポイントのみ指摘しておきます。


・スターリン没後に、八年ぶりに作曲された交響曲であること
・自身の署名として知られるd-es-c-h(DSCH)音型 を、作中で移調しない形で使い始めた曲。DSCH音型は第三、第四楽章に頻出。
(先行して作曲されたヴァイオリン協奏曲第一番(1948)で、変形されて登場している)
・「ショスタコーヴィチの証言」によれば、第二楽章の激烈なスケルツォは「スターリンの肖像である」とされる
(「証言」が「ショスタコーヴィチ自身の発言をまとめたものではない」とする偽書説に信憑性があるので、ここの真偽は不明瞭)
・第三楽章で一度も転調されずに繰り返されるホルンのモティーフはマーラーの「大地の歌」の冒頭からの引用。また、この音型を音名から読み替えることで、ショスタコーヴィチとつきあいのあった女性のイニシャルになる(コンドラシン国内盤のライナーノート、ショスタコーヴィチの書簡を元にした一柳富美子氏の説)
・これらの状況証拠から、この交響曲そのものをひとつの「ファウスト交響曲」として読み解くことができるのでは?という吉松隆氏の仮説


ざっと最近でも話題になるものだけ挙げただけでもこれだけのお題があるのですから、いやはや、千葉にはこの件にツッコむ度胸はありません(笑)。興味のある方はいつもの工藤氏の著作や吉松氏の著作をご覧いただき、さらに参考文献をあたっていただければ(笑)。


さて今回、本題のディスク以外に参照したのは、キタエンコの全集に先行してゼロ年代の(笑)ショスタコーヴィチの普及に大きく貢献した同郷の先達、ルドルフ・バルシャイとケルン放送響(WDR響)の演奏。最近では登場した頃のお値打ち価格でもないので影が薄いようにも思いますが(笑)、その誠実な演奏の価値は減じてないなと、聴き直して再認識いたしました。


2003年の都響との実演(メインの曲は第五番)でも感じられたことですが、マエストロの極端な表現に傾かないバランスの良い音楽作りがこの曲でも見事に機能しています。バルシャイが室内オーケストラを率いて活動していたことがもたらしたのかそれとも自身腕利きのヴィオラ奏者だからなのか、ポリフォニーがかなりの情報量で進む場面でもサウンドが混濁してしまわうような不手際はありません。ここ、この曲に限らずショスタコーヴィチの場合には最も重要なポイントの一つかと。


他の曲ではオーケストラがショスタコーヴィチに慣れていないように感じられるところもあったのだけれど、さすがに比較的よく演奏されるこの作品ではそんなすきま風(笑)もなく。実にまっとうな演奏であるなと感じました次第。最近、マエストロの来日が途絶えているのは残念ですが、ぜひまたまみえる機会がありますように。
(ただ、マエストロのリハーサルは非常に厳しいもので、楽員受けはあまりよくない、と聞いているのですが、どうなんでしょう…)


では、いつものキタエンコの全集がどうかと言えば。これまた、なかなか立派な演奏なのです。どういう感じかといいますと。

全曲を通じて明確な「遅い」楽章が存在しないこの交響曲※。バルシャイの演奏は、基本的にそのテンポを活かした比較的速めの、作曲者が「失敗した」と言及している「アレグロ交響曲」として演奏していたのに対し、キタエンコは第一楽章の冒頭であったり終楽章の冒頭であったり、遅めの部分をより遅めに演奏することで緩急をくっきりと見せてきます。結果として、勢いがある反面軽い印象をうけることもあるこの曲を堂々たるソヴィエト的交響曲に仕上げているように思われるのです。このテンポ設定は、それほど極端な速さを見せているわけでもない第二、第四楽章をより速く感じさせてくれますから、一石二鳥であります(笑)。


※各楽章冒頭のテンポ設定は以下の通り。第一楽章:四分音符=96、第二楽章:四分音符=176、第三楽章:四分音符=138、第四楽章主部:四分音符=176、第四楽章冒頭は序奏なので主部で比較


また、この曲もスタジオ録音なので演奏精度はかなりのもの。録音の良さと相まって、きっとテン年代(爆笑)のショスタコーヴィチ普及の旗頭となってくれることでしょう、10番だけにね(………)。




え~、くだらない冗談は交えましたが、評価そのものとしては本当ですよ、えぇ。ここにある種の狂気はないかもしれない、でも充分に作品の姿を見せてくれる、聴きごたえのある演奏を堪能出来て満足です。以上、第十番の話でした。


なお、ただいまこちら ではキタエンコの全集がお買得価格になっている模様、まだお持ちでない方は一度ご覧あれ。


本日はここまで。次回はあの交響曲第十一番です、頑張らないと書けませんな…ではまた。


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ショスタコーヴィチと言ったら本書ですよ。