こんにちは。千葉です。


年末年始に一回休みを入れてしまいました、申し訳なく。2010年のスタートとなる今回取り上げるのは、いわゆる「戦争交響曲」の最後を飾る問題作(またですか!)、交響曲第九番 変ホ長調 Op.70(1945)です。


Schostakowitsch: Die Symphonien [SACD]/Shostakovich
¥8,057
Amazon.co.jp


ある種のマジック・ナンバーと言えるだろう交響曲の九曲め、そしてそれは戦勝のタイミングに発表される作品。これはもう、記念碑的な作品を期待した政府を責めることはできません、あまりにお膳立てが整いすぎている。この曲を知った当時の千葉少年も、いろいろと期待したものですよ。※


しかし、ショスタコーヴィチの判断は違いました。発表された作品は、五つの楽章からなる小振りな純器楽による交響曲。編成は小さくないけれど、演奏時間でみると彼の交響曲の中でも短い部類に入ります。

どうなんでしょうね、ここにこめられた意図。当局の意図も承知して、第九ということも当然わかっている。それでも、求められただろう類いの作品は書かなかった。もちろん答えは作曲者自身しか知らないし(もしかして、速筆な彼はすぐにそこにあった意図を忘れたことにしたかもしれない)、それと音楽はまた別、と考えなくてはいけない、というか、そうでなければ再現芸術には存在する意味がない。ちなみに、この音楽を体制は黙殺に近い形で遇したとのこと。初演者のムラヴィンスキィは初演以外の演奏記録がないそうですし…


音楽そのものは、以下のように説明もできるかと。
古典派の交響曲を模したかのような型通りの?第一楽章、影のある舞曲風の第二楽章、そして第三楽章からアタッカで演奏される後半の楽章は、それぞれに癖のある音楽で。第三楽章は無機的機械的な高揚が空恐ろしいスケルツォ。第四楽章では、長大なファゴット・ソロがベートーヴェンの第九番のバリトン・ソロを模倣した挙句、民族的なメロディで終楽章へと導く、まるでハーメルンの笛吹きのようなこの在り方は如何ならむ。フィナーレは「これ、ハッピー・エンディングなんですよね?」と言いたくなるほど、見かけの明るさがまったく信用できない食わせ物。はてさて、どう演奏するのが良いのやら…


こんな作品を積極的に受け容れたのは、まずは西側の音楽家たちでした。千葉が最初に聴いたのもハイティンク盤だったし(入手した盤の、第一番とのカップリングには少々の悪意を感じないでもない)、クレンペラーやチェリビダッケなど、作曲された当時に活躍していた西側のマエストロによる録音もあります。

ですが今回参照するのは、またしても、ですみません!バーンスタインの旧い録音、ニューヨーク・フィルとのものです。本当は、この曲を取り上げたヤング・ピープルズ・コンサートの方がその意図はお伝えしやすいのですが…(入手困難)

Shostakovich: Symphonies Nos. 5 & 9/Dmitry Shostakovich
¥958
Amazon.co.jp


その番組と同時期に収録されたこの録音からは、ある種の屈折した遊び(ディヴェルティメントはもともと遊ぶ、楽しむからきていますね)の要素が強く感じられます。それこそ、時を隔てていま一度プロコフィエフの第一番に近い試みが行われているかのように。バーンスタインはその方向で第一楽章を見事に解説してくれているのです。何度となく繰り返し現れる特徴的なトロンボーンを道化に見立てたその説明は本当にわかりやすいもの、機会があればぜひご覧いただきたいものです。とはいえ、子供向けの企画なのでそれ以降の楽章については語られなかったような、確か(笑)。


バーンスタインといえばマーラー、って安易な物言いは避けたいのですが、マーラーを得意とするからこそできる表現というのはあるかな、と思わされます。続く楽章では矛盾する性格の音楽を共存させた、ショスタコーヴィチらしい暗さを上手く表現しているように思われます。舞曲の形はしていても、そこに隠せない苛立ちや憂いがあるような類いの。フィナーレのコーダ、軽躁的な盛り上がりはかえって落ち着かなさを感じてしまいますし…そうした表現は、この当時の彼らの演奏らしく非常に力強い演奏なのに聴いた感想はいささかスッキリしない、実にこの曲らしい演奏になっています(褒めてるんですよ、本気で)。アメリカのオーケストラらしい、ちょっとラフだけど明るい響きはなかなか魅力的です。
ちなみに、後年のウィーン・フィルとの録音は綺麗な仕上がりのためか、ちょっと「古典交響曲」風に感じられます。こっちはDVDが入手できますね。


Symphonies 6 & 9 [DVD] [Import]/Vienna Philharmonic Orchestra
¥2,875
Amazon.co.jp



さて、そしてようやくキタエンコの演奏の話。本当にね、この全集の仕上がりには感心させられます。これくらい立派に仕上げれば当局も騙されてくれたのでは?(笑)ちなみにこの曲もスタジオ録音です、いっそ全曲そうしてくれれば良かったのに…


愚痴はさておき。この曲に関しては特にテンポが遅いということもなく(むしろ一楽章、三楽章は速めに感じられるほど)、小気味良い演奏です。これまで聴いてきて、ときに暴力の気配が薄すぎる感じもあったのですが、この曲に関してはそんなこともなく。整った仕上がりが、結果として官僚的慇懃無礼さとして機能しているかも(褒めているように見えないなぁ、どうしよう←直さずこのままですけどね)。第四楽章のていねいな作りこみは終楽章をより怪しげなものにしているし、実に効果的な演奏かなと。あ、凄く褒めてしまいましたけど、全集の中でこの曲を褒められるのって、どうなんでしょうね(笑)。


ともあれ、体制とか時代とすりあわせて深読みしても良いし、そこから離れて音楽そのものを楽しんでも良い、なかなかの演奏と評価して、今回は終わりましょう。それではまた次回、またしても問題作を取り上げる予定であります。ごきげんよう。


※高校のライブラリに、この曲の吹奏楽編曲盤があったんです。確かアレンジャはマーク・ハインズレイ(違ったかも、自信なし)。残念ながら演奏するには至りませんでした。
吹奏楽ではなかなかお目にかかれない「交響曲」全曲を演奏することにまずちょっと憧れましたし、そしてそれが「第九」だったら期待しちゃうじゃないですか。凄くカッコいい作品をイメージしてました(そこに具体的なサウンドとかオーケストレーションとか、そういう期待はないんですけどね)。
で、ハイティンクの録音を聴いて、えっと、…となったのです(笑)。第四楽章は練習したような記憶があります、テューバの出番がありますから(爆笑)。