こんにちは。千葉です。


うかつにも、佐藤亜紀先生の講義の存在を失念していたのです。

思い出した顛末がまたうかつそのもので。


最近、殊能将之氏 がtwitterをはじめられ、彼の新作を待ちわびる日々をすごす身としては見逃すわけにはいかず、とてチェックし始めたら、どうも佐藤亜紀先生 もはじめられた模様、で日記ともども確認していてようやく講義が明日だったことに思い当たるのです。むむむ・・・

さらには佐藤先生が見られたことで、ようやく現在新国立劇場が「オテロ」を上演していること を認識するようなていたらく、いやはや・・・


そんなそこつものの千葉は、講義ノートも下書きまでしたところで失念してしまってました。あああすみません・・・

ということで、第一回の続きです(・・・)、本当にごめんなさい。

(承前)


三年目になる本年度→表現の問題を
「今という時代はどういう場所にあって、そこからどういう可能性が見出されうるのか?」


作品は外から、形しか見ることができない
→それを読み取る際に、どこに視点を置けば均衡がとらえうるか←この行為が「鑑賞」


・様式というものがある

例として挙げられたのはローマの彫刻

ローマ時代後期に向けて作風が変わっていく

アウグストゥス;古典的均整


コンスタンティヌス:安易なミスが散見される


→質の低下がローマの低落を現わしている、と言われてしまいやすいが、その観点はまず一度おいて、「なぜこう表現せざるを得なかったのか?」という問いを立てるべき


→作品において表現したいポイントが異なっているから、ではないか?


・「目」の表現が極端になっている
・依頼者の期待、表現者の意図のズレ etc


こういった条件が重なった結果として生まれた、ある意味では「崩れた表現」によって描かれる「真実」を受け取る(読み取る)のが鑑賞である。


←まぁ、コンディションが悪いと受け取れないよね
(作品と鑑賞者の関係を示唆している:簡単で直感的なコミュニケーションではないこともある)


とは言いながら、作品の力が直接的直観的(ちゃんと字を変えてますよ、意味に合わせて)に伝わってしまうこともある


例:ピカソ、その時々の女性を描いている一連の泣く女、横にモデルの写真を置くとそれぞれの個性が明確に描かれていることがわかる
また別の例:欧州のバロック絵画を現地で見る→日本で見たときに腑に落ちなかったものが受け取れるようになる


作品(制作されたその時代を含めた意味で)と、現在の自分との距離がつかめるようになる
→様式を受け入れることができるようになる


「様式を許容する」ことにより、視点を変えて対象を受け入れることができるようになる
「世界の見方(見え方)」が様式ごとに異なっていることに気づく
混沌に意味を与えること、世界の切断方法が異なる
→それに応じて表現も変わってくる


※ここでマジック・リアリズムという「リアル」について言及あり
ラシュディ:真夜中の子供たち、悪魔の詩
→世界があのように見えているが故の表現


・ある時代に対して、対応する表現の様式は必ずしも一つではない
⇔しかし今現在を起点として表現した場合、古い様式は積極的には選択されない


・とはいえ美術史的虚構として「様式の変遷」をある種のストーリィと捉えるのは?


歴史的弁証法の発想、しかし時代の様式は必ずしも前世代の様式に対して質的に優越するものではない
→世界の見え方が変わってしまった結果として、前世代の手法が無効化されたように見えている。それ故に次なる様式が出現したものと見るべき


ここで、大野晋氏の世界認識を旧世代のものとして、または幸福なる虚構的世界観の一つとして紹介されてます:2008年6月号の文藝春秋における丸谷才一との対談を引く形。


日本語の荒廃について、「ちゃんと見ていないから言葉が荒れる」云々との論を展開(雑誌に当たって読んでみたら、亡くなられた老大家に対して申し訳ない言いかたになるのだけれど、ちょっと繰言っぽかった)
⇔見ることと話すことは素朴に一致する世界観を示している
(見えたもの、感じたものは言葉に置き換えることが可能であると認識していたようだ、とうかがえる)


※丸谷才一の意図する市民小説の世界観とも合致するか(デイヴィッド・ロッジの影響を濃厚に受けている)

「女ざかり」が「言葉と世界が一致しうる世界」の描写という虚構として「成立」している
→自然主義リアリズムという、すでに終わっている世界観を用いていることについて、自覚的なのかどうか??
(自覚的であれば高度な虚構性、ということも可能かもしれないが)


総体として「理解可能な世界」におけるサスペンス:文脈(脈絡)ある世界
総体として「理解不可能な世界」におけるフィクション:文脈ない世界
→脈絡は事後的に見出される、後付けにしかならない(ここで大岡正平「野火」に言及があった記憶が)


カウンセリングのようなある種の「隠蔽」行為があってようやくむき出しの「事実」に向き合える、「普通」の枠に収めることなしに、日常的に受け入れられる現実は作れない


ここで参照されたのが、イアン・マキューアンの「土曜日」。
イギリスの作家を評して「面白い、しかしぬるい」としたうえで、「グラグラに煮えているミルクの、薄皮一枚の上にふわふわの世界を作り出す」云々との評あり。


薄皮一枚ではあるけれど、そこに明らかに存在する断層を認識しつつ、意識的にそこを回避して、結果加えられている行動の制約を受け入れている(肯定している)。


このように「薄皮一枚で隔てられる世界」において、表現は可能なのか?という問いが想定される

この問題を考えるときに参照されたのがジョナサン・リトル。エンタテインメント作家の息子でSFも書いているゴンクール賞作家だとか。 >ここが詳しいですね:ね式


鑑賞において必要なのは「次代の様式」(時代の、かも)に対して目を曇らせないこと

・認識のスキームによって受容が変化する部分がある。それを踏まえて読みとるのがリテラシィだよね


以上メモの再現、一部コメント追加でした。もちろん佐藤亜紀先生の講義を聴きながら取ったノートがベースですから、あくまでも千葉の認識した講義、です。それゆえ誤認もあるでしょうから、文責は千葉ということでお含みおきくださいませ。。


第二回以降はまた追って。ではまた。