明治45年(1912年)、稲毛海岸に日本初の民間航空飛行場が
出来ました。民間航空の発展に尽力したのが、奈良原三次、
白土栄之助、伊藤音次郎の3人。
(稲毛民間航空記念館)
(奈良原三次が研究・開発した飛行機、鳳号)
奈良原三次は、当時の陸軍所沢飛行場で、国産機初飛行に
成功。明治44年(1911年)5月、ライト兄弟の初飛行に
遅れること8年目の快挙でした。('◇')ゞ
しかし、軍の飛行機研究が活発になると飛行場が思うように
使えなくなり、新たに飛行場を探す必要に迫られました。
いざ飛行場を造るとなると、莫大な費用がかかることから
奈良原三次が目をつけたのが、当時、リゾート地でもあり
よく訪れていた稲毛でした。
引き潮になると砂が硬く、飛行場として利用できると考え
この地に初めての民間航空飛行場が誕生しました。
(稲岸公園にある、民間航空発祥の地の記念碑)
(現在の稲毛海岸)
その後、奈良原三次は、航空研究から身を引きますが
弟子の白土栄之助、伊藤音次郎に受け継がれます。
伊藤音次郎は、大正5年(1916年)1月、初の帝都東京飛行
に成功、大正6年(1917年)1月、民間航空機初の夜間飛行
に成功します。
大正6年(1917年)高潮により、稲毛の飛行場は壊滅的な
打撃を受け、使用が出来なくなると、白土栄之助は、千葉の
寒川で事業を継続し、伊藤音次郎は、習志野の鷺沼海岸に
新たな飛行場を設けます。
(習志野市袖ヶ浦の児童公園にある、伊藤飛行機研究所・滑走路跡)
しかし、伊藤音次郎は、弟子の山縣豊太郎を事故で失うと
いう哀しい出来事も起こりました。(-_-)
(習志野市鷺沼にある、山縣飛行士殉空之地の碑)
習志野の鷺沼に創設された、伊藤飛行機研究所は、
昭和20年8月の終戦まで継続し、民間航空の普及に
広く貢献しました。
ホンダの創業者である、本田宗一郎もここで学んだそうです。
このお話は、伊藤音次郎のご親族の方に直接お伺いしました。
これからもいろいろ、お話しを伺いたいと思います。(*'▽')