憲法 | 与太郎の一歩

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2012年最期の大きなニュースでした。
12月30日に憲法作成に携わったベアテ・シロタ・ゴードンさんが亡くなりました。

父の仕事の関係で5歳で来日。その結果、日本語はペラペラ。
大学はカルフォルニアにある大学で主席で卒業。
第二次大戦の勃発。
卒業後は日本にいる父を捜すため、新聞記者になる。
縁有り、GHQの通訳者として勤務。念願の日本に再び来訪。
父母と再会。

その後、マッカーサー司令の指示で憲法作成に携わる。
得意の日本語を使って、焼け野原の東京をジープで駆け巡り、焼け残った法律書や世界中の憲法を集め、GHQ本部の第一生命ビルに戻る。
資料をいっぱい持っていたベアテさんはこの時、「周囲の仲間から人気者だった」と記録してある。

憲法作成チームは25名。この中に憲法の専門家は誰もいなかった。
作成期間は7日間。早くしないとソ連が乗り出してきて日本の民主化が危うくなると判断したマッカーサー司令が、7日以内に日本国民が自主的に作った憲法を発表する必要があると判断した。日本側と検討などで2日使い、計9日で草案を完成させた。

世界各国の憲法や宣言などをもとに、当時、世界最先端の民主的で、戦争を放棄した日本国憲法が完成した。

この時ベアテさん22歳。
幼いときから日本の女性を見て来た彼女が、日本の女性の権利について書かせてくれと志願。
男女平等の条文を書き上げる。

英文憲法の翻訳なども行う。
英文を日本人らしく翻訳することに尽力し、日本側からも信頼を得ていた。

前文からはじまり、1条づつ検討が行われた。
男女平等の条文の検討が始まる。
日本側は「男女平等は理想だが、現在の日本には馴染まない」と主張。
これに対し、アメリカ側の大佐が一言。
「これはベアテが作成しました。いかがでしょう、この条文はこのままでいきませんか?」
日本側は驚き、ベアテさんに信頼していた日本側は「ベアテさんがそうおっしゃるなら」と承諾。

男女平等の条項が残ることになる。


そんなことがあったと記録が残る。

ベアテさんはマッカーサー司令が怖かったと記録している。
ベアテさんがGHQ本部の第一生命ビルに朝、出勤しようとした時、マッカーサー司令が出勤してきたそうだ。
怖くて、とっさに柱に隠れてしまったそうだ。



最期の言葉はニュースによると、「日本国憲法に盛り込まれた平和条項と、女性の権利を守ってほしい」という趣旨だったそうだ。

のちの本に、ベアテさんは
「世界にはまだまだ多く、女性の権利が低い国がある。そんな女性たちに、今度は日本の女性たちが力を貸してあげて欲しい」という趣旨を書いている。


大学の時、憲法を少しかじったので、ベアテさんのことも調べた。
先日、生徒に合衆国憲法とフランス人権宣言を終えたので、憲法について話したところでした。
大変残念です。ご冥福をお祈りします。