【古代賀茂氏の足跡】遊部 | 東風友春ブログ

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「遊部」は、殯宮での葬送儀礼を職掌としていた集団です。

遊部は、あまり知られていない謎の多い集団ですが、遊部について言及している文献は、令集解喪葬令が唯一と言っても差し支えありません。

 

 

遊部は、幽顕の境を隔て、凶癘の魂を鎮める氏なり。終身仕へることなく、故に遊部と云ふ、古記云はく、遊部とは、大倭国高市郡に在ます生目天皇の苗裔なり。

【令集解】(9世紀頃成立)より

 

令集解には、遊部の居住地を大和国高市郡としているが、和名抄(平安中期)では大和国高市郡に「遊部郷」と見え、大和志料(1914)では遊部を「ゆぶ」と音読したものが近世に「夜部村」となり、この地域はさらに変わって、今は「四分」と書いて「しぶ」と呼んでいる。

この四分は、現在の橿原市四分町にあたるが、大和志(1734)によると飛鳥川「蘇武川」とも称し、又、同じく大和志にある「遊部井」は橿原市今井町の「蘇武井」であり、これは「あそぶ」が「そぶ」に変化したものと見られ、遊部郷は、現在の橿原市今井町四分町、そして明日香村豊浦までの飛鳥川流域にあったと考えられる。

ちなみに万葉集(7-8世紀成立)には、丹比真人国人が豊浦寺にて詠んだ歌に「明日香川、逝廻の丘の秋萩は、今日降る雨に散りか過ぎなむ」とあり、この「逝廻丘」は明日香村の「甘樫丘」「雷丘」のことと考えられ、大和史料では逝廻丘は「遊ノ岡」と異名同所としているが、葛木坐火雷神社の伝承から、笛吹の神が通った遊ノ岡とは別物だと考えるべきだろう。

このように遊部ゆかりの地が、令集解に記された高市郡だけでなく葛城にも及ぶのは、大和朝廷の大王の陵墓が、河内国和泉国に造られるようになったからである。

いや、高市郡の遊部は、飛鳥京藤原宮造営にともなって宮城周辺の土地に居住した結果かもしれず、遊部の発祥の地がどちらなのかは、実のところよく分からない。

 

 

さて、令集解では、遊部のことを鎮凶癘魂之氏也と説いているが、これは、生目天皇(垂仁天皇)の皇子である圓目王と、比自岐和気の娘との間にできた子孫が「遊部」の名負いの氏族であるとしながら、雄略天皇の崩御の際では、比自岐和気の苗裔が絶えていたので「七日七夜」御食を奉ることが出来ず、天皇の御魂が「荒びたまう」と記し、それ故に遊部を「兇魂を鎮む」ことのできる氏族と説明している。

しかし、そもそも「鎮魂」とは、病気や怪我により、魂が遊離しないよう肉体に結びつけておくための儀式であり、死に瀕する者に対しては、蘇生を試みる行為でもあった。

つまり、鎮魂とは、呪術と医療が明確に分かれていなかった古代における一種の概念と言えるだろう。

ちなみに令集解にその人よく兇魂を鎮むるゆえ、終身事へることなく、課役を免かれ、意に任せて遊行す。故に遊部と云ふとあるのは誤解である。

「遊び」とは、「歌舞飲食」を含む殯での葬送儀礼を指し、決して遊部の人が遊び歩いていた訳ではない。

さらに令集解では、遊部の仕事を禰義と余此の両役が喪屋に入り、禰義役の者は刀や戈を持ち、余此役の者は刀を負い酒食を捧げて供奉したと記すが、ここに哭女碓女のような存在は見当たらない。

これは、遊部が本来の役割を見失い、殯宮での儀式の意味が変質したことを物語っている。

ちなみに折口信夫氏の「日琉語族論」(1950)によると、殯の語源は「仮喪」の変化したものであり、後に「もがり」が虎落竹矢来などを意味する言葉に用いられたのは、動物が遺体を食い漁らないよう障害物を設置したためだと述べています。

そもそも死者が蘇生するにしろ、亡骸の腐敗や白骨化を見届けるにしろ、その間は遺体を野生動物から守らなければならない。

つまり、令集解からは「あそぶ」と表現された蘇生の儀式は消え去って、形式的な遺体の防衛だけが、殯宮に供奉する遊部の役割として残ったようだ。

これは、おそらく大化二年(646)の薄葬令、そして、天皇家の葬儀に対する仏教形式の導入及び火葬の採用が、旧来の葬送儀礼を無用なものとしたからだろう。

 

 

ちなみに令集解では、先に述べたように、雄略天皇の殯で「七日七夜」御食を奉ることが出来なかったと記している。

魏志倭人伝(3世紀末)では、殯の期間が「十余日」であるのに対し、記紀では、天若彦の殯を「八日八夜」とし、令集解では「七日七夜」に変わったようです。

もちろん、とは、命日から亡骸が墓所に埋葬される迄の期間をも意味するので、例えば、天武天皇持統天皇の殯が一年以上だったように例外は存在する。

しかし、一般的に殯を「七日」とするのは、現在仏教由来の風習だと考えられている「通夜」「初七日」が、実は、古代からの我が国固有の文化だった可能性があります。

 

ところで、賀茂社伝承は、建角身命が神々を集めて而七日七夜樂遊と記す箇所があるが、この表現がもともと葬送儀礼の形式に由来するのではと思わせるのです。

賀茂社伝承では、七日七夜の宴において、玉依姫命から生まれた子は昇天して、神になりました。

しかも、賀茂別雷神の父は、遊部が奉祀していた「黄泉帰り」の神であり、蘇生の象徴でもあった「火雷神」です。

ここで率直な意見を言わせていただくと、殯での鎮魂の儀式とは、黄泉の国において伊邪那美命の身体に雷神が宿ったように、遺体を「依り代」にして幽魂を鎮め、故人を「神」へと変容させる特殊な技法だったのではないでしょうか。

これは、各地の神社の多くが、もともと葬所に対する拝所に由来するといった説や、また、神社での祭礼が、墓所で先祖霊を慰める行為や殯での儀式を再現したものが発端とする説を補完しうる考えと言えそうです。

このように、山城国に移住した賀茂県主らの先祖は、葛城では山口神火雷神を奉斎していた氏族であり、少なくとも、遊部と何らかの関係があったと考えるのです。

賀茂県主らの先祖は、朝廷や製鉄業者だけでなく、土師器の製造及び死者の火葬など、葬送儀礼に必要な薪や木炭を供給していました。

賀茂県主が職掌としていた主殿部に、氷室から氷を調進する仕事があるのも、夏場の涼をとるためだけでなく、殯の間に遺体が痛まないよう、氷で冷やす目的もあったのではないだろうか。

しかし、大規模な古墳が作られた古墳時代に入り、大和や河内では木材の調達が困難になり、賀茂県主の先祖らは、豊富な森林資源を求めて山城に進出しました。

つまり賀茂県主の職掌と葬送儀礼とは深い関わりがあり、彼らが山城に進出した理由には、資源の枯渇という当時の社会事情があったと考えるのです。