【古代賀茂氏の足跡】葛木坐火雷神社 | 東風友春ブログ

東風友春ブログ

古代史が好き。自分で調べて書いた記事や、休日に神社へ行った時の写真を載せています。
あと、タイに行った時の旅行記やミニ知識なんかも書いています。

 

近鉄御所駅から西へ、鴨山口社のほど近く、葛城山麓の丘陵地に「葛木坐火雷神社(火雷社)」は鎮座している。

火雷社は、延喜式では「大和国忍海郡」に記載されているが、忍海郡は明治三十年(1897)南葛城郡に変更後、昭和三十一年(1956)北葛城郡新庄町に編入され、平成十六年(2004)當麻町と合併して葛城市が発足したため、現在は奈良県葛城市に所在している。

火雷社は、賀茂社伝承に登場する山城国乙訓郡の他、和泉国大鳥郡の陶荒田社近くにも存在し、さらに大和国宇智郡や廣瀬郡、宮中大膳職でも火雷社を祀っていました。

葛城を出発点として山城国に転出した賀茂県主を考える時、乙訓郡に坐す火雷神の原形も当然こちらに求めなければならない。

 

 

葛木坐火雷神社

所在地/奈良県葛城市笛吹(小字神山)

主祭神/火雷神、天香山命

例祭/二月十一日(祈年祭)、四月十九日(鎮花祭)、十月二十五日(例祭)、十一月十五日(鎮火祭)

 

延喜式に記載された葛木坐火雷神社二座 並名神大社、月次、相嘗、新嘗のうち、一座は社名の通り「火雷大神」であり、もう一座の神については古来より諸説あるが、現在では「笛吹連の祖天香山命」としている。

尚、相殿神として「高皇産霊神、大日孁貴尊、瓊々杵尊、伊古比都幣命」を併せ祀る。

しかし、火雷社は延喜式に記載されてはいたが、その後の記録には見えず、和漢三才図会(1712)も「其の地を知らず」と述べ、火雷社は長らく所在不明となっていました。

 

その代わりに登場するのが「笛吹社」もしくは「笛吹大明神」の名称である。

奥儀抄(平安末期)には「笛吹社よりははかの木をきりて都に奉りぬれば、神司龜の卜する事にぞ侍りけるとかや」と見え、波波迦木の供給地として笛吹社が登場している。

ハハカの木は、ウワミズザクラ(上溝桜)の古名のこととされ、古事記の天の石屋戸の段にて天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天の朱櫻(ははか)を取りて、占合ひまかなはしめとあるように、鹿の肩骨をこの木の皮で焼いて吉凶を占ったことが知られており、当社から朝廷へ度々この木を献納したらしい。

今日でも鳥居脇や社務所横にこの木を見ることができ、毎年春には白い花を咲かせている。

 

 

笛吹社の成立については、笛吹社宮司持田篤訓氏の記した神幸日記(1564)によると、崇神天皇の時代に遡る。

崇神朝十年に建埴安彦(記では建波邇安王)の反乱が発生するが、四道将軍の一人大彦命(記では大毘古命)は軍を率い、建埴安彦の軍と奈良山にて対峙する。

和韓川(木津川)の南にて、大彦命の副将である櫂子(記では丸邇臣の祖日子國夫玖命)が、建埴安彦を射殺したことにより、大彦命は賊軍を平定することができ、天皇は櫂子の戦功を賞して天磐笛笛吹連の姓を贈った。

この夜、櫂子の夢に瓊々杵命の霊光が現れて「彼の磐笛を以って吾が御霊を祭れば世の中の顕事も安く聞こし食す」と神懸りが有ったため、天皇に奏上したところ、神の教えのままに斎き奉れとの勅を蒙ったので、瓊々杵命を「当社火雷の相殿に斎き奉る」とある。

ちなみに当社で行われる鎮花祭は、かつては、この瓊々杵命の神憑りの日(旧暦三月十三日)を祭日としていました。

 

 

さて、この神幸日記の記事を信じれば、笛吹の神とは「瓊々杵尊」だと解釈できるし、そもそも瓊々杵尊を相殿に祀る以前から火雷社が存在したことになり、火雷社と笛吹社では創立の時代も由緒もそれぞれ異なることになる。

実は、火雷社と笛吹社が同一のものか、または、式内の火雷社二座と式外の笛吹社の二社が並存していたものか不明なのである。

大和志(1734)によると、火雷社は「笛吹村笛吹神祠傍に在り」とし、式内社調査報告「式社は中古衰微して、笛吹社の末社になったものであろう」と述べているように、火雷社は長い間、笛吹社社殿脇に鎮座する小さな祠の状態で、笛吹社の宮司以外に火雷社の行方を知る人はほとんどいませんでした。

神幸日記は、式内火雷社二座の神を「大彦神、伊弉冉命」と記し、火雷社と笛吹社とは別々の神社だとの立場だが、「そも当社の始めとは、神代の昔より火雷神の有り坐す霊地なり」とも述べており、付近には「火ノ宮」の小字も残っていて、延喜式では火雷神と笛吹神を併せて二座の神と数えたのではないだろうか。

火雷社は、明治七年(1874)笛吹社に合祀され、社名を「葛木坐火雷神社」と旧に復して現在に至っている。

 

 

ところで、櫂子が賜った「笛吹連」については、姓氏録では河内国に笛吹 火明命之後也と見え、また旧事紀には(天火明命の六世孫、天香語山命からは五世孫、建田背命の弟である)建多乎利命笛吹連、若大甘連等の祖なりと記しているので、尾張氏とは先祖を同じくする氏族とされている。

しかし、神幸日記によると笛吹連櫂子「彦国葺櫂子」と記しており、これは古事記の記載と合致してはいるが、彦国葺命は孝昭天皇皇子「天足彦国押人命」の三世の孫であり、火明命を祖神とする天孫別の氏族ではない。

余談だが、火雷社本殿後方に横穴式古墳が存在し、当社はこの古墳を拝する形をとっている。

玄室内には立派な石棺が保存されているが、神幸日記は、この古墳の被葬者を「孝昭天皇の皇子、天押帯日子命」だと伝えている。

この古墳以外にも、背後の丘陵は約百基余の古墳が存在し、これらを「山口千塚古墳群」と言う。

この丘陵は「笛吹山」と呼ばれ、風雨のたびに巨樹が揺れ動き、笙のような楽器の如く鳴ったそうだ。

 

さらに、当社から東北には「遊ノ岡」と呼ぶ丘陵があったらしく、夫木抄(鎌倉後期)に「笛吹の社の神は音に聞く、遊びの岡や行き通ふらん」との歌を載せている。

伝承では、ある夜大神が童子の姿で現れ、遊ノ岡へ通い給うので、この遊ノ岡までの間に時々倒れる者があって、この神と行き違ったのだと噂したそうだ。

昔は、遊ノ岡に天忍日命大山咋命を祀り、鎮花祭や秋の大祭には遊ノ岡へ御神幸があって、そこで御弓の神事、鳴鏑流鏑馬騎射が行われたようだ。

現在では、遊ノ岡への祭礼は途絶えてしまい、遊ノ岡の所在も文献によって距離が三丁だったり七丁とされていたり、特定が難しくなっている。

 

 

ちなみにJR大和新庄駅の東、葛城市笛堂には「遊田」の小字があり、「笛吹社」「遊ノ岡」の存在と同様に「笛吹氏」「遊部」の関連が窺える。

笛吹氏は、鎮魂の際に笛を奏したと考えられており、一方、遊部は葬儀に必要な棺や祭器を用意したり挽歌を唄うといった役割を有していました。

 

そもそも火雷神は、黄泉の国において伊邪那美命の身体に頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左手には若雷居り、右手には土雷居り、左足には鳴雷居り、右足には伏雷居り、併せて八柱の雷神成り居りき古事記に記されており、ここで強烈に印象づけられるのは「死」の進行と変化に他ならない。

火雷神は、黄泉の国の話といい、葬送儀礼に携わった笛吹氏や遊部との関係といい、やはりどこか「死」のイメージが纏わりつく。

葛城の火雷社は、古事記の黄泉帰りの神話をもとに、笛吹氏や遊部により、古墳の被葬者の復活を願い、火雷神として鎮め祀ったものではないだろうか。