月読神社(以下、月読社)は、松尾大社から南へ約400メートルの地に鎮座する松尾大社境外摂社であり、葛野の秦氏と関わりが深いとされ、松尾七社の一社でもある。
月読神社(松尾大社境外摂社)
御祭神/月読尊
例祭/十月三日「式内社調査報告」
月読社の創祀は、(第二十三代)顯宗天皇三年とされる。
阿閇臣事代、命を銜けて、出でて任那に使いす。是に、月神、人に著りて曰はく、「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有り。民地を以って、我が月神に奉れ。若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」と。事代、是に由りて、京に還りて具に奏す。奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は、山背国の葛野郡に在り。壹伎縣主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。
【日本書紀】舎人親王(720)より
日本紀によると、阿閇臣事代は、出向先の任那において、月神に取り憑かれた人が「我が祖神高皇産霊尊は天地を造る功有り、よろしく民地を月神に奉れ。そうすれば、まさに慶福があるだろう」と語るのを聞き、事代は、京に帰って「歌荒巢田」の地を奉ります。
月読社は、この時の「月神」を祀り、祭神を「月読尊」とする。
月読社は、神名帳(927)の山城国葛野郡に「葛野坐月讀神社 名神大、月次新嘗」と記載される式内社であるが、壱岐県主の先祖の押見宿禰が奉祀したとされることから、神名帳の壹伎嶋壹伎郡に記載されている「月讀神社 名神大」が元宮であり、一般的に京都の月読神は、長崎県壱岐島の月読社より勧請されたものと考えられている。
貞觀十四年(872)四月廿四日癸亥、宮主從五位下兼行丹波權掾伊伎宿禰是雄卒、是雄者、壹伎嶋人也。本姓卜部、改爲伊伎。始祖忍見足尼命。始自神代、供龜卜事。厥後子孫傳習祖業、備於卜部。
【日本三代実録】(901)より
押見宿禰の一族は、古来より卜占に長けていたので「卜部」を姓としていたが、もともとは長崎県壱岐島の人であり、後に姓を「伊伎」や「伊吉」と改めたようだ。
ところで、当社境内には「月延石」なるものが安置されており、この石は神功皇后の故事により安産の御利益があるとされる。
舒明帝二年八月、伊吉公乙らを筑紫伊都県に遣はして神石を求む。一巻石を歌荒巢田神宮に納む。此の石昔、神功皇后月神の誨に隨ひ産月を延ぶ。依りて後に月延石と名づく。
【雍州府志】黒川道祐(1686)より
雍州府志は、(第三十四代)舒明天皇の御世に、月延石を九州から運んだ人物を「伊吉公乙」と記しており、伊吉公は月読社の神官の人間で、山城国と壱岐島との往来の関係からこの石を月読社に持ち帰ったと思われるが、おそらく賀茂祭縁起に登場する「卜部伊吉若日子」も、この一族の者だっただろう。
さて、月読社は、神名帳に「葛野坐月讀神社」と記されるように、古くは葛野郡の「葛野」に鎮座していたと思われ、現在地には齊衡三年(856)に遷座してきたようだ。
齊衡三年三月戊午、山城国葛野郡月読社を移し、松尾の南山に置く。社、河浜に近く水のために噛まるる所故に之を移す。
【日本文徳天皇実録】(879)より
文徳実録には、月読社が水害を避けて、松尾の現在地に移転したことが記録されている。
月読社旧鎮座地の「歌荒巢田」は訓みが不明で、「うたあらすのた」や「からすだ」であろうと考えられるが、もしそうなら「ヤタガラス」の傳化を想像して興味深い。
歌荒巢田については、所在も不明なのだが、葛野坐月讀大神宮傳記によると、上野村と桂里の二つの説があるようだ。
舊記曰、顯宗帝三年依神託献山背國葛野郡歌荒樔田十五町、以為月読神地。按歌荒巢田在大堰河之西南、即今松尾之東南地是也。今上野村之西有月讀塚、是旧地也。上野村古名神野村、即月読神社田代也。神役家今猶存。南有二桂里一。
舊説云、往昔月読尊天降二山背国葛野郡歌荒巢田桂木杪一以上係風土記。於レ是設神席。而後桂木長茂、而在二河浜一、依以為二河名一、亦為二里村之号一。桂里東有二桂川一、水源出二大堰川一、南流至二鳥羽一、而会二淀川一也、故於レ今以桂木為二樹一。
【葛野坐月讀大神宮傳記】(成立時期不明)より
まず、桂川(大堰川、葛野河)の西南の地とは、上野村(京都市西京区桂上野)の辺りで、上野(かみの)を古くは神野村と称し、ここに月読塚なるものがあったらしく、しかも上野村は桂川が大きく湾曲した河辺にあって、「社近河濱、爲水所囓」という文徳実録の記述に一番近く、歌荒巢田の最有力候補地となっている。
一方、桂里説は、山城風土記に月読尊の降臨伝説が桂(京都市西京区桂)に伝えられていたことを根拠としている。
山城風土記に云はく、月讀尊、天照大神の勅を受けて、豊葦原の中國に降りて保食神の許に到りましき。時に一つの湯津桂の樹あり。月讀尊乃ちその樹に倚り立ちき。其の樹の有りし所を今、桂の里と號く。
【雍州府志】黒川道祐(1686)より
この桂木が、月読尊の御神木となり、地名になり、川(桂川)の名となったなら、こちらの説も無視できないが、上野村と桂里の位置は近接しており、おそらく古代には桂川に沿って桂木が生い茂る林が散在していたのだろう。
さて、月読社の境内には、本殿向かって右に、摂社「聖徳太子社」が鎮座している。
月読社には、太子社の由緒が残っていないが、聖徳太子伝暦(917)に太子が三十三歳の時、秦河勝の案内により山城国葛野郡に赴き、「其日臨二楓野大堰一而宿造二假宮於蜂岡之下一」という説話が記されており、これは太秦の広隆寺もしくは桂宮(現在、広隆寺塔頭の桂宮院)が建立された縁起物語とされているが、この楓野(かつらの)への太子の臨幸は、月読社摂社の太子社と何らかの関係があるのではないかと思っている。
ちなみに月読社は、松尾七社の一つとして「松尾祭」の神幸祭に参加するが、この時の順路に、旧川勝寺村を抜け、月読橋(京都市下京区西七条北月読町、南月読町)を通る。
川勝寺の地名は、かつて秦河勝の寺院がここにあったことに因むそうで、「月読」の名が残る月読橋や月読町については、残念ながら地名の由来は伝わっておらず、月読社を河浜の社とする文徳実録の記述にも合わない。
しかし、旧川勝寺村も月読橋も、上野村や桂とは反対の桂川左岸にあるが、もしこの地が月読社の旧鎮座地で、聖徳太子がこの近くに仮宮を設け、後にその建物は寺になって太秦に移転し、あるいは太子社として、月読社の遷座に伴って松尾に移転したと仮定すると、なぜ月読社と秦氏の関わりが深いとされるのかについて、いくぶん謎が解けたような気がしてならないのだ。