北谷津清掃工場の隣の「若葉いきいきプラザ」の向かいにあるコンビニの裏から旧道に入るとすぐ、左手に「馬頭観音御在所」があります。
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ここには全部で七基の馬頭観音がまとめられていて、その由来はというと、
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・・・とのこと。金光院というのは金親町にある真言宗豊山派のお寺で、正式には「愛染山金光院延命寺」といいます。ご本尊は弘法大師作と伝えられる薬師如来で、開基は1289年という古刹です。
この旧道沿いは急な坂が多く、往時には荷役に従事する多数の牛馬が犠牲になったことでしょう。まずは合掌。欲を言えば、それぞれの馬頭観音がもともとどこにあったのか、後世の人間にもわかるようにしておいて頂ければ良かったのですが。
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さて、ひとつひとつの馬頭観音を順番に見ていきましょう。まず、右側手前の一基。
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昭和十一年十二月十日
馬頭観世音
土屋鉄之助建立
と刻まれています。この時代もなお、旧道が千葉市街方面との往来に用いられ、牛馬が活躍していたことが偲ばれます。いや、しかしこの年にはもう日中戦争のため、農耕馬の供出が始まっていたはずです。それと関係するものかもしれません。あとで調べてみます。
上の写真には写っていませんが、その奥にもう一基隠れています。
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明治三十一年
馬頭観世音
四月十八日
と刻まれています。この年は西暦で言うと1898年。4月時点での総理は伊藤博文でした。6月には大隈重信が首相になり、これは日本で最初の政党内閣です。文化面では岡倉天心が日本美術院を創設したりしています。
その左の一基は江戸時代のものです。
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摩滅がややひどいのが残念です。
文化九年
三月吉日
と刻まれています。文化九年は1812年。将軍は十一代家斉で、高田屋嘉兵衛がロシア艦に拿捕されたり、海の向こうではナポレオンがロシアに遠征したりしていますが、ともかく千葉の人々はその間もひっそりと、斃死した牛馬を悼んでいたのです。
中央の一番大きいのが、一番古いにもかかわらず保存状態も良いようです。
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文化二 丑 三月吉日
と刻まれています。どうも私が見てきた範囲内だと、少なくとも千葉市若葉区では、新しいものよりある程度古いもののほうがよくその形態をとどめている傾向があります。石の質のせい、あるいは石工の腕、それともその両方なのでしょうか。これは顔の表情まではっきり残っています。文化二年は1805年、乙丑です。たった七年でこうも違うものでしょうか。この頃の将軍はやはり家斉。華岡青洲が初めて麻酔を用いて乳がんの手術を行なった年だと、私が高校の日本史の授業で使っていた、浜島書店の「新詳日本史図説」に記されています。(タネ本をバラしてみる)
その左はシンプルに文字のみ。
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文化九 申
馬頭観音
二月吉日
と刻まれています。この年は壬申でした。
その隣は新しいものです。
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正面に
馬頭観世音
左側面に
昭和十七年五月
高橋三治郎建立
と刻まれています。これもやはり、戦中の農耕馬の供出と関係のあるものでしょうか。
その後ろにもう一基隠れています。
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文政六 癸未年
(聖観世音菩薩を表す梵字) 馬頭観世音
三月吉祥日
と刻まれています。文政六年は1823年。シーボルトが長崎にやってきた年です。
囲いの外側にはこんな看板も。
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看板があるということは捨てる奴がいるのでしょう。駄目だぞ、こんなとこに捨てちゃ!