おなじみの国道126号線から、坂月神社の横の旧道を坂月小学校方面にしばらく上ると、V字型に分かれた道沿いに多数の馬頭観音が並んでいる一角があります。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091208)


急な坂の上にカーブになっているこのあたりは、往時には力尽きて斃死する馬もあったろうことが偲ばれます。年代は新しいものから古いものまで様々で、



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091208)


これなど何と、平成二十年の建立という新しさ。断言はできませんが、これはおそらく千葉の馬頭観音の中でも最新の一基ではないでしょうか。


一方、古いほうはこちら。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091208)


文化九申 七月吉日


施主 清右エ門


と刻まれた立像です。文化九年は1812年、壬申でした。ここから直線で3キロほどの、北谷津町の馬頭観音御在所 にも同じ文化九年製の坐像がありますが、それに比べるとこちらの方がずっと保存状態が良いようです。




11月30日、近くを通りついでに、北谷津町の馬頭観音御在所 に立ち寄ってみました。


花が生けられ、ニンジンが供えられていました。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091130)


うん、そうだよね。馬にはニンジンだよね。



千葉市の馬頭観音  

(20091130)


8本のニンジンと、それを供える人の心。往時、荷役に服し、時には坂道で斃死した数知れない馬たちのために。



国道126号線の大草交差点を、千城台方面へ上がっていくと大草谷津田生きものの里入り口の馬頭観音 ですが、逆方向へ進んで大草橋を渡り、多部田町へ向かいます。ぐうるりぐうるりと二、三度カーブし、右手に見える五社神社の杜を過ぎると四つ辻が開けており、


大きなケヤキの木の下に、



千葉市の馬頭観音  

(20091127)


二基の馬頭観音が並んでいます。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091127)


きちんと手入れされ、花が供えられているのが素敵です。


千葉市の馬頭観音  

(20091127)


右側のものの方が新しく、



千葉市の馬頭観音  

(20091127)


嘉永七 甲寅年


馬頭観世音


二月吉日


と刻まれています。嘉永七年は1854年、日本の鎖国が終った年ですから、例の大草谷津田生きものの里入り口の馬頭観音の左側の一基と、おそらく同じ年に建立されていることになります。両者の距離は1キロ少々。往時にはこの道を通って千葉方面から佐倉方面へと荷馬が歩んでいたのでしょうか。


左側の一基は立ち姿の像です。



千葉市の馬頭観音  

(20091127)


花に隠れて見えにくいですが、


落井 森源兵衛


寛政六甲寅 六月吉日


と刻まれています。寛政六年は1794年、フランス革命の年です。ある程度古いものの方が精度が高く石もいいの法則はここでも生きているようです。


ケヤキの木には、たいへん立派なサルノコシカケ(たぶんツリガネタケ?)が。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091127)


風情もあり、保存状態もいいだけに、いつまでも地域に生き続けて欲しいと思います。

富田町の都市農業交流センターで、毎年秋になると「コスモス祭り」が開催されます。地元ボランティアの皆さんの育てたコスモスを観賞、摘み取りでき、音楽祭や野菜の直売などいろいろと楽しめるというお祭りです。


そんなわけで、御成街道の富田新田のバス停近くから、都市農業交流センター方面へ進むまっすぐな道を、「コスモス街道」と呼ぶのだそうです。その道沿いに桜の古木があり、そこに寄りかかるようにして三基の馬頭観音があります。ここを過ぎると道は右に曲がり、鹿島川支流・富田谷津方面へ下りてゆきます。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091110)


右から見ていきましょう。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音

(20091110)


亨和三 亥 六月吉日


村中


と刻まれています。亨和三年は1803年で、癸亥でした。このブログで最初に紹介した中田町・旧佐倉街道の馬頭観音 と一年違い、距離も3、4キロしか離れていません。こちらの像は観音様が立っているのが大きな違いです。


その左の一基は文字のみで、



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091110)


正面に


安政六 未年


馬頭観世音


十月 吉日


側面に


村中


と刻まれています。


一番左の一基は新しいものです。


千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091110)


正面に


馬頭観世音菩薩


側面に


昭和四十三年十二月吉日 仲田隆司 建立


と刻まれています。


ちなみに、木に立てかけてあるこの塔婆みたいなのは、



千葉市の馬頭観音  

(20091110)


木造の馬頭観音・・・ではなく、千葉市のグリーンビレッジ推進課の立てた看板のようです。



千葉市の馬頭観音  

(20091110)


いずれはこの看板も朽ち果てることがあるでしょうが、そうなってもこの三基の馬頭観音と桜の木には、ずっとこの地に残っていて欲しいな、と思います。

北谷津清掃工場の隣の「若葉いきいきプラザ」の向かいにあるコンビニの裏から旧道に入るとすぐ、左手に「馬頭観音御在所」があります。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091030)


ここには全部で七基の馬頭観音がまとめられていて、その由来はというと、



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


・・・とのこと。金光院というのは金親町にある真言宗豊山派のお寺で、正式には「愛染山金光院延命寺」といいます。ご本尊は弘法大師作と伝えられる薬師如来で、開基は1289年という古刹です。


この旧道沿いは急な坂が多く、往時には荷役に従事する多数の牛馬が犠牲になったことでしょう。まずは合掌。欲を言えば、それぞれの馬頭観音がもともとどこにあったのか、後世の人間にもわかるようにしておいて頂ければ良かったのですが。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


さて、ひとつひとつの馬頭観音を順番に見ていきましょう。まず、右側手前の一基。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


昭和十一年十二月十日


馬頭観世音


土屋鉄之助建立


と刻まれています。この時代もなお、旧道が千葉市街方面との往来に用いられ、牛馬が活躍していたことが偲ばれます。いや、しかしこの年にはもう日中戦争のため、農耕馬の供出が始まっていたはずです。それと関係するものかもしれません。あとで調べてみます。


上の写真には写っていませんが、その奥にもう一基隠れています。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


明治三十一年


馬頭観世音


四月十八日


と刻まれています。この年は西暦で言うと1898年。4月時点での総理は伊藤博文でした。6月には大隈重信が首相になり、これは日本で最初の政党内閣です。文化面では岡倉天心が日本美術院を創設したりしています。


その左の一基は江戸時代のものです。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


摩滅がややひどいのが残念です。


文化九年


三月吉日


と刻まれています。文化九年は1812年。将軍は十一代家斉で、高田屋嘉兵衛がロシア艦に拿捕されたり、海の向こうではナポレオンがロシアに遠征したりしていますが、ともかく千葉の人々はその間もひっそりと、斃死した牛馬を悼んでいたのです。


中央の一番大きいのが、一番古いにもかかわらず保存状態も良いようです。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


文化二 丑 三月吉日


と刻まれています。どうも私が見てきた範囲内だと、少なくとも千葉市若葉区では、新しいものよりある程度古いもののほうがよくその形態をとどめている傾向があります。石の質のせい、あるいは石工の腕、それともその両方なのでしょうか。これは顔の表情まではっきり残っています。文化二年は1805年、乙丑です。たった七年でこうも違うものでしょうか。この頃の将軍はやはり家斉。華岡青洲が初めて麻酔を用いて乳がんの手術を行なった年だと、私が高校の日本史の授業で使っていた、浜島書店の「新詳日本史図説」に記されています。(タネ本をバラしてみる)


その左はシンプルに文字のみ。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


文化九 申


馬頭観音


二月吉日


と刻まれています。この年は壬申でした。


その隣は新しいものです。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091030)


正面に


馬頭観世音


左側面に


昭和十七年五月


高橋三治郎建立


と刻まれています。これもやはり、戦中の農耕馬の供出と関係のあるものでしょうか。


その後ろにもう一基隠れています。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


文政六 癸未年


(聖観世音菩薩を表す梵字) 馬頭観世音


三月吉祥日


と刻まれています。文政六年は1823年。シーボルトが長崎にやってきた年です。


囲いの外側にはこんな看板も。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


看板があるということは捨てる奴がいるのでしょう。駄目だぞ、こんなとこに捨てちゃ!