国道126号線の大草交差点から県道53号を千城台方面に上ってゆくと、右手に「大草谷津田生きものの里」の入り口があります。その駐車場近くに二つの馬頭観音があります。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


右側の馬頭観音には、


安永四 未天


十一月吉日


と刻まれています。花入れの前には小銭が供えられています。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091030)


安永四年は西暦だと1775年で、乙未でした。徳川将軍は十代家治です。現存する千葉市の馬頭観音の中では比較的に古い方ではないでしょうか。この頃の老中はかの有名な田沼意次で、前の年には前野良沢らが「解体新書」を著している・・・という時代です。海外に目を転じれば、アメリカ独立戦争が始まったのもこの年です。


問題は左側のほうですが、地面に埋まっています。観音様は頭だけが出ています。



千葉市の馬頭観音  

(20091030)


刻まれている文字を追うと、


南夫く〇


〇〇七 寅年


〇月吉日


東金〇


道標も兼ねたもののようですが・・・よ、読めねえ~。


年号に関しては、下の一文字が「永」のように見えます。嘉永七年が甲寅なので、それかもしれません。だとすると1854年のことで、これは激動の年です。将軍は十三代家定。二月にはペリーが浦賀に来ました。三月には日米和親条約が結ばれています。二百年に渡って続いた日本の鎖国が、ついに終りを告げたのです。


・・・いずれにしても、ちゃんとわかるようにもういっぺん調べるなり、誰かに尋ねるなりして、また改めて取り上げようと思います。

川井町から上ってきた旧佐倉道が、国道126号線を渡り、鹿島川支流・平川へと降りてゆく、森の中の坂の途中に建てられている馬頭観音像です。



千葉市の馬頭観音  千葉市の馬頭観音  

(20091031)


享和二 四月吉日


奉納


施主 宮田佐助


と刻まれています。享和二年は西暦で言うと1802年。徳川幕府は11代将軍家斉の時代です。開国はまだまだ先であるものの、蝦夷地を舞台にロシアとの緊張関係が徐々に形成されつつあった頃です。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が出版されたりしたのもこの年でした。施主の宮田佐助の「宮田」は姓ではなく、このあたりの地名です。どのような立場の人であったのかはわかりませんが、個人名で馬頭観音を奉納するくらいですから、宮田ではそれなりの人物であったのかもしれません。



千葉市の馬頭観音  

(20091031)


像のふもとには、今も小銭が供えられています。



千葉市の馬頭観音  

(20091031)


このあたりは旧道の面影をかなり良くとどめているのではないでしょうか。


千葉市の馬頭観音  

(20091031)


このまま狭い急な坂をちょっとだけ下りると、火消神の祠へと上がってゆく石段があり、それを過ぎてさらに降りてゆくと、平川沿いの田んぼが一気に開けます。旧佐倉道はそのまま川を右手に見ながら山裾の道を進み、平川はやがて鹿島川本流と合流し、佐倉へと続いてゆくのです。