わたしは彼のことを「古い友人」と呼んでいます。でもその呼び名で合っているのかどうかわかりません。「友人」と呼べる間柄では、もしかしたらないのかもしれない。
第一、長い間会っていませんでしたし。連絡を再開したきっかけは、ふと思いだして、わたしがツイッターで名前を検索したことでした。同姓同名がたくさんいてもおかしくないお名前ですが(まあ、わたしほどではないですけど)、本人らしい特徴のある投稿だったので、わたしから声をかけました。覚えていてくれてるかどうか不安になりつつも。
90年代初め、パリ。
あの頃、ひとり夜の街を歩いて、時折ヴィエイユ・デュ・タンプル通りへ向かいました。セーヌ左岸のわたしのアパルトマンから、セーヌ右岸の友人たちのアパルトマンまでは、歩いて「ほぼ一直線」。今、グーグルマップで当時のルートを入れると、地図上でもかなりまっすぐであることにあらためて驚かされます。
坂道のモンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りを北上し、広々としたサン・ジェルマン大通りに出ると、当時の大統領のフランソワ・ミッテランの居宅があった暗い小道、ビエーヴル通りを抜けてセーヌ河岸へ。アルシュヴェシェ橋を渡ってシテ島に入り、サン・ルイ橋を渡ってサン・ルイ島を経由し、さらにルイ・フィリップ橋を渡ってセーヌ右岸に入ります。そこからは、マレ地区を縦断する細くて長いヴィエイユ・デュ・タンプル通りをただひたすらまっすぐ進みます。
このルートがとても好きでした。
3つの橋を渡るたびに、立ち止まって左手の欄干にもたれ、目の前に広がる風景を仰ぎ見ます。風にたゆたう漆黒の川面の上、闇夜に浮かぶ白亜の石壁を彩る、抑制された色彩のエレガントなイルミネーション。目の前にそびえるノートルダム大聖堂の圧倒的なフライングバットレス。その奥のポン・ヌフ、ルーヴル宮、コンシェルジュリーの幻想的なライトアップ。左手奥でオレンジ色に発光するエッフェル塔。いつ見ても、何度見ても、見飽きない、現実離れした美しい光景。
友人たちに会いに行くという目的で、月に数回の頻度で行なっていたこの夜の散歩を、この先いつまで続けられるんだろう。あと何回、こうやってはやる心でこの道を歩き、美しい夜の街をひとりじめできるんだろう。いつも、そう思っていました。
日本社会からドロップアウトして渡仏し、とりつかれたように狭くて暗い室内で勉強ばかりしていたわたしを不憫に思ったのか、たまに「おいでよ」と声をかけてくれたのは、彼だったのか、それとも彼と同居していたもうひとりの友人だったのか。
彼らの家には、いつもたくさんの人がいました。行くたびに、新しい顔が増えていました。いったい何人の「新しい友だち」を紹介してもらったでしょう。その「新しい友だち」たちとも、「パリの日本人」のよしみでわたしは親しくなりました。一緒に映画を観たり、ライブに行ったり、飲んだり、食事をしたり、遠出をしたり……男の子も、女の子も。
不思議なことに、そうして知り合った「友だち」たちと、再びヴィエイユ・デュ・タンプルのアパルトマンで会うことは、ほとんどなかったような気がします。わたしは、別のところで、新しい「友だち」たちと親交を深めました。
ヴィエイユ・デュ・タンプルのふたりの友人は、あまりにもたくさん友だちを作りすぎて(それほど人が多く集まるところでした)、面倒みきれなくなったぶんをわたしに何人かバトンタッチしてるんじゃ?と、ちらっと思ったほどです。なぜなら、その「友だち」たちに、ヴィエイユ・デュ・タンプルの友人たちと会ってるかどうかを尋ねると、みんな口々に「忙しそうで会ってくれない」と、さみしそうに言っていたから。とくに、今わたしが「古い友人」と呼んでいる彼のほうは、男女問わずみんなに好かれていて、誰もがいつでも彼に会いたがっていた。そして、いつも彼の話をしていました。
わたしは、もしかしたら、「古い友人」とふたりきりで会ったことは一度もなかったかもしれない。いつだってそこにはたくさんの人がいて、彼とわたしの間には常に共通の友だちが何人もいて、その人たちは、「古い友人」がいない時もわたしに彼の話をして。だから、わたしだけが、いつの間にか彼を勝手に「友人」と錯覚してしまったのかもしれない。
そんな「仮の友人」(そうだ、これからは「古い友人」ではなく「仮の友人」と呼ぼうかな)に、わたしはひそかにひとつの夢を託していました。
いつか、彼が撮った映画を観たい。
彼がたくさんの人たちを魅了しているのを陰で見ていた時から、ずっと。
この写真を撮ってもらった時から、ずっと。
25年以上経った今、もうすぐその夢が叶います。