先日、長崎にバスでひとり旅をした時(11月20日付の本ブログ参考)、「教皇来県」のお知らせを見かけて「あ、そうなんだ!」と、レアなロックミュージシャン来日のお知らせを見つけたようなワクワク感にとらわれていたのですが、我ながら「どうしてあんなにワクワクしたんだろう?」と、ずっと引っかかっていたのです。

 

 

自分でも気づかなかったのですが、わたし、どうやらフランシスコ教皇を好きだったみたいです。なんて、まるで自分の恋心に突然気づいた中学生のようなセリフですが。

 

 

だから、この映画のお知らせを見て、すぐに「観たい!」と思ってしまいました。

 

 

とてもよかったです!

 

 

だって、アンソニー・ホプキンスがベネディクト16世で、ジョナサン・プライスがフランシスコ教皇(というか、この作品ではまだベルゴリオ枢機卿ですが)ですよ? イギリス出身の名優二人がダブル主演、しかも教皇ですよ? もうね、表情とか、動きとか、絶妙。常に目と背中で語ってる感じでした。

 

 

それにですね、歳をとったせいか、わたし、もうね、「悪意」がキツイわけですよ。あの『ジョーカー』じゃないですが(10月16日の本ブログ参照)。

 

 

でもこの作品、なんたって主人公が教皇ふたりですから。もう、最初から大船に乗ったつもりで観れるんです。おそらく、お互いに「確執」「葛藤」「暗い過去」など、まあ、いろいろあるのかもしれませんが、「悪意」「憎しみ」「復讐」はないだろうって最初からわかってますので。キッツい展開になるはずはないって思ってるから、観ながら気持ちに余裕があるんです、こっちに。だから安心して展開についていけるし、細かいところをじっくり観察できます。

 

 

え、でもそれでドラマになるの? ふつうは相手を憎んだり、嫉妬したり、陥れようと企んだりするからこそドラマになるんじゃないの? とも思うんですが、ちゃーんとぐいぐい引き込まれるドラマになってるところがすごいです。シナリオのおかげ? 名優二人の演技のおかげ? 両方かもしれませんけど。

 

 

なんか、ふたりの会話の次元が違うよなあ、いいなあ、すごいなあ、と終始思ってました。だって、暗黙の了解のレベルがすごすぎる。

 

 

1)神の声が聞こえること。

2)自分の罪の意識や恥をすべてさらけ出しても、相手は絶対にそれを受けとめてくれる(拒絶しない)こと。

3)互いに相手を理解できず、まったく意見が合わなくても、決してそれが憎しみにはならないこと(そして自分だけでなく、相手もならないことを知っている)。

4)シンクロニシティは単なる偶然ではなく、神の意志であること。

 

 

他になにかあったかな……今思いだせるのはこのくらいですが、他にもあったかも。とにかく、こうしたすべてが、お互いに口に出さなくても、ごく当たり前のこととして、それ前提で話が進んでいくって、すごくないですか? ふつうは、たとえば、ひとりが「おれ、こないだトイレで神の声が聞こえてさあ」(←あくまでたとえば、です)と言ったら、もう一方は「は? 何言っちゃってんの?(笑)」ってなったり、あるいはたとえば、ひとりが「ねえ、さっき○○くんにラインしようとしたらさ、その瞬間に向こうからラインがあってさー、すごくない? 運命っぽくない?」と言ったら、もう一方は「え? そんなん偶然っしょ?」ってなったりするじゃないですか(え、ならない?)。そして、どんなに距離を感じる相手に対しても、決してその相手を色眼鏡で見たり、視点が歪んだり、意固地になったり、頑なになったりしないし、相手もそうならないってわかってる関係って。

 

 

でも、だからこそ、ふたりとも演技がそうとううまくないとこっちに伝わらないですよね、ふたりの間の微妙な空気感が、口には出さないのにみるみる変わっていく感じって。

 

 

この作品、12月20日からネトフリでストリーミング配信されるそうなので、もう一度観てみようかなあ(ネトフリ登録してないんですが、この機会に)。

 

 

あ、そういや、シナリオはあの『ボヘミアン・ラプソディ』の人ですって? へえー。

 

 

それはそうと、今日、フランシスコ教皇のお誕生日なんですって!? なんと奇遇な! もしや、これも神さまのお告げでは!? ……いや、ちがうだろ、わたし、キリスト教徒でもないのに。

 

 

どうして知ったかっていうと、今日さっそくフランシスコ教皇のツイッターをフォローしたからです(苦笑)。あるんですね、邦訳バージョンが。やっぱり、ファンが多いんでしょうか。……いや、ちがうだろ、ファンじゃなくて信者でしょ、ふつう。