今さらですが、1930~60年代に活躍したアルベルト・モラヴィアというイタリア人作家にはまってます。古本屋さんで買った『孤独な青年』(1951)(ベルトルッチの映画『暗殺の森』の原作)がおもしろかったので、今度はゴダールの映画の原作『軽蔑』(1954)を。
 
これ、邦訳文庫版は67年に出てるようですが、表紙もいいですねえ。60sっぽいですね。
 
イメージ 1
 
これまたおもしろかったー。うーん、ゴダール好きを自称するわたしですが、映画より好きかもしれません(映画が小説に勝るのはBBの美しさとフリッツ・ラングと音楽くらいかしら)。
 
 
あらすじ。戯曲家になりたいのに仕事がなくて、渋々ながら映画のシナリオライターとして生活費を稼いでいる、20代後半のリカルドが主人公。タイピストのエミリアと結婚して2年、ずっとラブラブだったのに、この頃急に妻の態度が冷たくなった。それとなく理由を尋ねても「わたしは変わらない」の一点張り。でも笑顔が少なくなり、会話もなくなり、リカルドに触れられるのも嫌がるように。しつこく問いただすと、「正直言って、もうあなたを愛してないの。あなたを軽蔑してる」と面と向かって言われて、大ショック。ストーリーはリカルドのモノローグの形で進みます。妻に軽蔑される原因が思い当たらず、エンドレスに悶々と自問しつづけます。
 
「このおれが軽蔑されるなんて! おれは嫁を喜ばせるために、ローンを組んで高級住宅街にマンションと自家用車を買ってやり、返済のためにやりたくもない仕事をして、いつだって嫁のために尽くしてきたのに。エミリアの実家は母親と二人暮らしの貧乏で、たいした教育も受けてない。美人だけがとりえの、しがないタイピストを拾ってやったつもりだった。一方のおれは、こう言ってはなんだが、学歴があってインテリだ。戯曲家として有名になってもおかしくないのに、金のためにプロデューサーや監督に才能を絞りとられながらシナリオライターをやっている。だが、自分でも嫌になるほどマジメだから、受けた仕事は全力でやっている。このおれがどうして嫁に軽蔑されなきゃならないんだ?」(←意訳。原作はもっと抑制された表現です)
 
いや、そこだよ、そこ(笑)。
 
でも、リカルド君は気づかないんですねえ。いえ、ゴリラ顔した金持ちで俗物の映画プロデューサーの高級車の助手席に、嫌がる妻を無理やり乗せたのが原因、と思いついたようですが、それさあ、たぶん彼女が爆発するきっかけになっただけで、ほかにいろいろあったのをずっと我慢してきたんじゃないかなあ。で、あなたがバカにしてるゴリラプロデューサーは、あなたのように愚痴っぽくも理屈っぽくもなく、頭の中であれこれ考えすぎてめんどくさい言動をしたりもせず、ストレートでわかりやすいからエミリアは好感を持ったんですよ(まあ、一緒に暮らせるかどうかは別として)。
 
さて、リカルドは、エミリアが自分を軽蔑する原因を見つけることができたでしょうか。そして、ふたたび彼女と愛しあえるようになったのでしょうか。……小説の結末はすごいです。ゴダールの映画より100倍いい。
 
それから、「ホメロスの『オデュッセイア』で、ユリシーズは妻のペネロペに軽蔑されているののが辛くて、故郷のイタケーに帰るのをわざと引き伸ばした」という解釈が作中で語られていて、それがリカルドとエミリアの関係とみるみる重なっていく描写も見事です。これもゴダールの映画では味わえないカタルシスでした。
 
それにしても、ネットを見ると、世間にはリカルド君に共感する男性がけっこう多いことに驚きます。で、「女というのはこうやってころっと気持ちが変わるものだ」とか言ったりして。
 
わかってないのう(ため息)。
 
それにしても、男性読者はリカルドに、女性読者はエミリアに、ちゃんと感情移入できるように書いてるモラヴィアはやっぱりすごい。男は「女って……」とため息をつき、女は「男って……」と呆れる。でもわたしが想像するに、終盤のリカルドの超めんどくさい思考回路(とくに第21章)は、モラヴィア自身も「こいつ、ほんっとにめんどくさいやつだな」と、苦笑しながら書いてたんじゃないかしら。
 
そう考えると、ゴダールの映画はやっぱり男目線すぎる。申し訳ないけど、実生活でアンヌ・ヴィアゼムスキー(←好き)に軽蔑されちゃうのも無理はないです。まあ、だからこそBBをあれだけキレイに撮れるのでしょうけれど。
 
興味があるかたは、エリアーデの『マントレイ』と一緒に収められたものが河出書房新社から出ていますので、ぜひ。