芋煮会 歴史 山形県村山地方 明治時代以降

 


明治時代(19世紀後半から20世紀初頭)になると、街の粋人たちが「野掛」(のがけ)といわれた山の芋煮を川原でもするようになり、1892年(明治25年)ころから川原での芋煮が定着した。以降、芋煮会は、山形に置かれていた歩兵第32連隊の兵たちや山形高等学校(旧制)の学生が行ったり、見合いや商談、送別の場となったりした。



芋煮に牛肉が使われるようになったのは、昭和の初め(1920年代後半)頃からである。養蚕農家の人たちが、秋蚕後に繭業者の経費負担で芋煮会を最上川の川原で行い、そのときに当時普及し始めていた牛肉をおごらせたのが最初とされている。なお山形市内には明治時代に創業した牛肉店が多く、牛肉はその頃から普及しはじめたと考えられる。山形高校に在籍した作家の戸川幸夫(とがわ ゆきお)は、1932年(昭和7年)の芋煮会の様子をエッセイ「わが山高時代の芋煮会」で記述しており、その頃からすでに山形名物の芋煮は盛んで、大鍋に芋、ねぎ、牛肉およびその代替品としての馬肉、こんにゃくなどを入れ、酒を酌み交わしていた、としている。また、中山町立長崎中学校から1941年に山形県中学校(のちの山形県立山形東高等学校)に進学した烏兎沼宏之(うとぬま ひろし)は当時、長崎町内の学生団として自分たちで開催したほかには、最上川でも馬見ヶ崎川でも芋煮会の姿は見かけなかったとしている。芋煮の材料は1980年代と同じく、里芋、牛肉、こんにゃく、ねぎが主であった。太平洋戦争の激化により、烏兎沼らが芋煮会の開催したのは1942年までであった。



1945年(昭和20年)の終戦後数年は、肉の代わりにイカを入れていた。暮らしが豊かになると、会場が飲食店に移り、川原の人影は消えていった。



1974年(昭和49年)、山形市と山形市観光協会が伝統的な芋煮の研修会を開いたところ、大きな反響があり、川原での芋煮会が促されるようになった。1977年(昭和52年)からは、前年の唐松観音堂復元を機会に「山形いも煮祭り」が開催された。その後は、山形市内のスーパーマーケットが芋煮の材料や薪などのセット販売や鍋の貸出をしたり、飲食店のメニューに芋煮が加わったり、レトルトの芋煮が販売されたりするようになり、芋煮会はますます盛んになっていった。こうした動きの中、1989年(平成元年)に「日本一の芋煮会フェスティバル」が開催され、10万人の人出を集めた。



山形市で里芋を栽培・販売しているさとう農園株式会社は、明治時代に行われた馬見ヶ崎川(まみがさきがわ)改修工事がきっかけで河原での芋煮会が広まったとしている。1891年(明治24年)まで行われた馬見ヶ崎川改修工事において、河川改良工事に従事した人たちは河原で大鍋を用いたちゃんこ鍋のようなものを昼飯として食べていた。これらの人たちが、1945年の終戦後に当時を偲んで河原で秋に大鍋を囲むようになり、その具材として里芋も用いたのだという。

 

 



※秋蚕(あきご、しゅうさん)

7月下旬以降に飼育される蚕。