キリスト教の神



三位一体

キリスト教では、「父なる神」、「子なる神」、「聖霊(せいれい)なる神」、この三者を「三位一体(さんみいったい)と表現する。日本正教会では至聖三者(しせいさんしゃ)との訳語を用いる。

新約聖書福音書(ふくいんしょ)は、神へのと隣人愛の実践を説き、律法的で厳格なユダヤ教ファリサイ派(パリサイびと)を批判したナザレのイエスの半生を中心に描写しているが、伝統的なキリスト教の多数派では、ナザレのイエスはキリストであり、子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている。


三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議正教会全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。



キリスト教における訳語としての「神」

漢字である「神」が、ヘブライ語: "אלהים"‎、古典ギリシア語: "Θεός"、英語: "God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していたにおけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソンによる漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上、"Term question"(用語論争)と呼ばれる。この論争の発生には、アヘン戦争後、清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた。

用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「上帝」を推す派と「」を推す派とが存在したことである。前者はウォルター・メドハーストなど多数派イギリス人宣教師が支持し、後者をE.C.ブリッジマンをはじめとするアメリカ人宣教師達が支持した。



カトリック教会においては天主(てんしゅ)の訳語が用いられていた。プロテスタントには真神という用語もあった。

こんにちでも、その妥当性については様々な評価があるが、いずれにせよ、和訳聖書の最も重要な底本と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる漢文訳聖書は、「神」を採用していた。ほとんどの日本語訳聖書はこの流れを汲み、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせずに、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。