東の窓はまだ暗い。

裸の胸に乗せられた真咲の手に自分の手を重ねる。
心地よい寝息に 身体がゆっくり上下している。
冷たいむき出しの肩を 引き上げたブランケットごとつつむ。

「万智…」

寝言のように呟いて身体の向きを変え
私の身体はもう一度しっかりと抱き直された。

昨夜
実家からとんぼ返りした真咲がうちに着いたのは
夜中の2時ころだったか…

台所でお湯を沸かそうとする私を
後ろから抱きしめ うなじにキスをした。
私の肩を反転させ
唇を吸い、そのまま胸元へと這わせていった。



万智子…



呼んだの?

それとも、吐息?


ベッドまでの間に次々と脱いだ服が
お互いの身体のように重なりあっている。

まだ身体に残る
感触のような 残像のような…

もう少し 寝ていてもいいかな…







その着信履歴を見たとき 少し混乱した。
離婚するまでの8年間、名乗った名前。

自分で自分の携帯にかけた?


そんなはずはない。
元夫からの着信だった。
冷静になって苦笑する。

離婚当初、手続きの事など事務的な打ち合わせで
何度か連絡を取り合ったが
いつどちらからかけたのが最後か覚えていないほど 久しぶりの電話だった。

あえてかけ直さなかった。
タイミングによっては
無駄な憶測を家庭に与えてしまうかもしれない。

二日ほどおいてもう一度着信があり
今度は四度めのコールで応答した。

「困っていることはないか?」

「お久しぶりです。順調ですよ。お陰さまで。」

「そうか。」

「なにかありましたか?」

「いや。お袋が年末に近くで君を見かけたと言うから…仕事かな?」


あの現場…義母も気づいていたのだ。

「布田駅の近くで仕事をしたの。ラフな格好で作業しているから、お義母さんがご覧になったのなら どんな仕事かと不安に思われたのかもしれませんね。」

「ああ。心配していた。
なんだ…その、他人行儀だな。」


他人でしょう?
離婚して何年にもなる。

「一度、時間を作ってもらえないか。
君の都合に出来るだけ合わせるから。」


一瞬、戸惑いもしたが 断るだけの理由もなく
今となっては たいした用事でもないだろうと
私が提案した日時に約束をした。

「すまないな。」

元夫は、かけてきたときよりいくぶん明るい声で
電話を切った。

さて
真咲に話しておく方が
後で言い訳がましくなるよりましかな…。




正月気分というのは不思議なほどあっさりと過ぎていく。昔に比べてテレビも正月らしい番組が少なくなったように感じる。
家庭から離れると慣習からも解放されて 
特別な支度が不要になるせいか、部屋のなかに正月を思わせるものは見あたらない。
部屋はどちらかというと殺風景だと思う。
ベッドにかけたキルトだけは 小花を散らしたような柄物を選んだ。


暖冬と言われているが、週間予報で初めて
翌週に雪の予報がでた日

元夫 壮一が選んだのは銀座のみゆき通りにある
和食ダイニングで
入口で名前を告げると個室に通された。
仕事向きのカジュアルな洋服ばかり着ていたが
銀座と聞いて久しぶりにブラウスとスカートを選んだ。ヌーディベージュのパンストと5センチのヒールを履くと姿勢が正しくなる気がした。



壮一は先に着いて、ビールを飲んでいるところだった。

「すまない、先に始めているよ。」

「気を遣うことないわ。楽になさって。」

「君も好きなものを頼んで…」






きみ…


結婚する前は、そう呼ばれていた気がする。
結婚してからは、『まち』と呼ばれた。
母親と二人暮らしの家に嫁いだ。出来上がっているものの中にうまく溶け込めるように無駄な主張は避けた。
快活だった頃の義母は不在にすることが多かったのでそれほど窮屈に感じることはなかった。

ただ
寝室が義母の部屋の真上だったので
私はセックスに集中することが憚られ 
声をあげないように気を遣った。
義母が旅行で不在の夜は壮一の帰宅が早かったことが今では懐かしい。



「仕事は順調なの?休みとか給料とか、不満があるならどこか紹介するから遠慮なく言って。」

「とても、気に入ってるの。仕事が楽しいわ。私、結婚が早かったから 今ごろになって社会人として
ちゃんとデビューできた気がするの。」

「そうか。ああ、確かに早かった。誰にも取られたくなかったから、俺は強引に君をもらったからね。」


ビールをつぎたそうと手をのばすと
壮一は手のひらをこちらに向けて制した。

「本命は、総務の田村さんだとずっと思っていたのよ?」

「まさか。彼女は2課の課長補佐と出来てたんだよ。不倫。もったいないよな。」

「えー、知らなかった。」


「まちのそういう呑気なところが好きだったんだ。素朴でさ。」


まち


万智子…


「田舎者だから…」

うまく流そうとして、それでもうまく返せなかったと思う。


「再婚は?いるの、誰か」

ノーコメント

聞かないで…結婚なんて望めないわ。


「まち?」

「何か、たのもうかなー」

「ああ、何が食べたい?」



堀座卓の中は 床暖房になっている。爪先が不意に壮一の足に触れた。

「うまくいってなくてね、お袋と嫁さん。」

嫁さん…
電話で聞けなかったことを聞いてみよう。

「お子さんは、どちらだったの?」

「ああ、男。男だよ。」

「まぁ、良かったわね、欲しがってたものね。」

「お袋が がぜん張り切っちゃってさ、手に負えない。」

「元気になられて良かったわ。お嫁さんのお陰ね。」


ガラス越しに見かけた義母の姿がよみがえる。
足取りは、確かに軽かった。

「何もかもが、まちと正反対。家事は下手くそで、メシもまずい。」

「私に言っては駄目よ。」

「・・・・」

「まぁ、ちょっぴりなら愚痴っても良いわよ。」

「家を出たがってる。けど、お袋を一人には出来ない。なんべんも話した。納得しなくてね。離婚したいと始まった。」

「駄目よ、それはいけない。」

「まち」

「もっと、もっと話し合って。」

「まち」

「お義母さん、わからない人ではないわ。あなたがちゃんと間に入らないと…」


くちもとを手でぬぐい少し考えるような間をとって
壮一は視線を少し上げた。

「俺は、離婚もありだと思ってる。」

壮一さん?

「子供は置いていくと言ってる。そういう女だ。そもそも、産むつもりがなかったのを お前が身を引いたから 成り行きで産むことになったんだ。そういうつきあいだったんだ。」

やめて…

「こんなこと、正気じゃ頼めない。他の女に産ませた子供を育てて欲しいなんて。」

やめて…

「お袋も、まちの事を気に入っていた。だからあの時、精一杯のことをしてやりたがった。」

堀座卓のなかで膝が触れあう…

「戻って欲しい。まち、俺はこのままお前を連れて帰りたいくらいなんだ。」

壮一の脚が意識的に動いているのを感じる。
堀座卓のなかで、私はぎりぎりまで身体を引いた。


「駄目よ。それは出来ない…。あなたがするべきことは、子供のために家庭を立て直す事でしょう?」

「すまない、まち。急がない…こちらもまだ何も整理できてないんだ。だから、ゆっくり考えてくれないか。秋田のご両親には、納得してもらえるまで何度でも説明するから。」

壮一は身を乗り出して
今にも立ち上がる勢いで訴えた。

襖の向こうから声がして
湯気の上がる料理をのせた盆が運ばれてきた。
壮一は座り直すと軽く咳払いをしてビールを一口含んだ。









晴海通りを日比谷に向かって歩いた。

光に溢れた街。

高級ブランドの店内には隙のない男性店員が
笑顔と無表情の中間をたもったまま 身動きもせず定位置についている。

数寄屋橋交差点にさしかかったとき、店の前で別れたはずの壮一が追いついて 私の肩を抱いた。
そのまま交差点を渡りきると有無を言わさずガード下を左にそれて歩いた。

「壮一さん、丸ノ内線から離れてしまうわ。」

「まち」

腰に回された腕の力は思いのほか強くて、振りほどけない。身体を捩るようにして、力をこめた。
非難するような私の目を受けとめたまま、壮一の顔が近づいた。


やめて…


ビールの味がした。



違う…私の知っている唇は

私の心を踊らせる唇は



これではない…



振り切ってそのまま、今来た道を戻った。
前日の雨が残した水溜まりを避けることにも気がまわらず、小さくはねあげてしまった。
壮一が何かを叫んでいたが聞き取ることは出来なかった。









『万智子ぉーー』

真咲からLINEが入っている。
小さな画面の上で指が泳ぐ。既読がつけば見たことがすぐにわかる。便利なのか不便なのか、よくわからない。
迷った末、最寄り駅に着いたときに

『駅だよ』

と、返信した。

『そのまま真っ直ぐ歩いてドトールの前でストップ』

なになに?(笑)

ドトールの前で店を覗くと窓際の席に真咲の姿を見つけた。

『コーヒーおごるよ』

『カフェモカが良い』

『おけ』

甘い香りを堪能しながらゆっくりと口に含む。

「たくさん待ったの?」

「んー、一時間くらい」

「お腹は?」

「来る前に済ませた」

「そか」

「デザートが食べたい…」

「何か食べる?」

「それ飲んだら帰ろう。万智子の家で頂く。」

「前菜しか食べなかったのね。欲しいのはメインでしょ?」

「フルコースで仕切り直す」





私が知っている唇

私の心を踊らせる唇…




店を出て、寄り添って歩いた。
昼間の暖かさは消え 冷たい空気に入れ替わっている。
手袋を外し、真咲のポケットの中に手を入れる。
指先に何かが当たった。
すぐに何かわかった。

私は無言で真咲を見上げる。5センチのヒールは
いつもより彼の顔を近くに感じる。

「出してみて」

私は、躊躇した。

「X'masプレゼントはもう、もらったわ。」

「うん。それは別。」

「あのね、」

「言ったはずだよ。幸せにしたいのは万智子だけ。」

慎重に、言葉を選ぼうとしていた。
望めないものと、失いたくないものと…

それでも、失いたくない気持ちが今は勝る。
どうやって伝えれば良いの?

「あなたのご両親に申し訳ないの」

なんて卑怯な言い方だろう…

「話したから。何も心配することない。」

年上のバツイチ。それだけではない。
つらい、つらい事実。

「私は、産めないん…」

「良いんだ、何も言うな!」

たぶんもう、泣いていた。





マンションに着くと、真咲は私の手首をつかんで先導した。初めての夜そうしたように。

リビングに入ると、私の手のひらから指輪をとって
つかんでいた左手首を持ち直すと


深呼吸をして



厳かに儀式を始めた。