新宿で山手線を降りて京王線の改札まで来るとわずかに胸がざわついた。
離婚してまもなく4年がたとうとしている。
意識して避けていたのか京王線を利用する機会はなかった。八王子や府中に仕事で向かうことはあったが、いつも車を利用した。
調布の家を出て新宿行きの各駅停車に乗ったあの日

蜩が鳴き始める夕刻
夏の終わりだったか…。



空調の効いた車両の端の三人掛けの座席にゆったりと座ると 馬鹿な話だが前の晩の夕食に作った
卯の花の残りを冷蔵庫の上段に乗せたままにしてきたことが気になった。

なぜ 卯の花なんて作ったんだろう。

出ていくことが決まっていたのに、ぎりぎりまで律儀に家事をこなして 嫌みのつもりなど全くなかったが義母と夫が好むおかずを作った。

夫は帰らなかったし
義母も箸がすすまなくて
当然 残ってしまった。

今朝 思い出し、捨てようとしていたのに
通帳や印鑑の場所を義母に説明しているうちに
忘れてしまった。
きっと 義母が処分するだろう。

ふと 涙がこぼれた。

ずっと ずっと
泣くことも出来なかったのに 電車のなかでようやく泣いていることに安堵したら止まらなくなった。




結婚して2年目

待望の妊娠はあっけなく7週めで流産した。
1年も待たず 再び妊娠がわかったときは
夫も義母もベッドに縛りつけるくらいの勢いで 
私に家事のいっさいを禁じて大事を取ったが

それでも トイレの中で出血に気づいたときは 
取り乱して声をあげた。

どうして…

どうして?

ママにしてくれないの?




病院で処置がすんで夫が会計を済ませているあいだ
喉が詰まる感じがして 
かけ込んだトイレの中で 力なく吐いた。
2度の妊娠ともつわりが始まる前に流産してしまったのだが つわりとはこんなものなのかもしれないと経験のない身体で感じた。



それ以来
なんとなく夫とはレスになってしまった。

求められて 受け入れて
私の身体はその準備が出来ているのに
挿入しようとすると夫は萎えてしまう。
何度かそんな顛末を経験すると
気まずさもあって求められることもなくなった。


時間が必要なだけ。

そんな風に自分に言い聞かせた。


快活でおしゃれを好んだ義母は私が嫁いだ頃は
旅行に出かけたり友人と芝居を観に行ったりと 
行動派な人だったが

不幸は重なるのか私の2度めの流産のあと
外出先からの帰り道 自転車と接触して転倒し
膝を痛めた。
リハビリの甲斐もあって歩くことは出来たが
びっこを引くようになり、杖が手離せなくなったのを恥じて引きこもりがちになってしまった。

靴の着脱が一人では困難な時もあり
それでも
手を貸そうとすると不機嫌になる。
私はネットで調べて何軒か店を見て回り
柔らかな本革製の
マジックテープで着脱できる靴を求めた。

「履いてみませんか?」

そう言って玄関に並べてみたが

「そうね、今度ね」

と言ったきり、私の前で履いて見せてくれることは
とうとう一度もなかった。

家のなかに重くて 暗い空気が
充満していると感じた。





夫から
まとまったお金が必要だと言われたのは
東京が梅雨入りしたと
お天気キャスターが伝えていた夜だった。

使い途を尋ねると言葉を濁す夫に
こちらも黙ってひたすら次の言葉を待った。

枕元に置く水差しを持って
リビングに入ってきた母が

「お父さんと同じことをしたのかい?」

そう言って
私の椅子の背もたれに手をかけた。
まるで、援護するかのような体勢で。

「ああ そうだ。産むつもりはないと言ってる。だからまとまった金を用意してやりたい。手切れ金と思ってくれていい。」

背もたれにかけた義母の手に力がこもるのを
私は身体で感じた。

長い沈黙のあと次に重い口を開いたのは
やはり、義母だった。

「産んではもらえないだろうか」


消え入るようで
それでも強い意思を込めた言葉だった。


義母は養子縁組を考えていたようだが
夫の実子でありしかるべき年齢になるのを待って、というのも 結局は夫が両方の家庭を行き来するのを容認することになり

なにより
子供の成育に与える影響を案じた。
私が出ていくよりほかに
ベストな道があるだろうか。

離婚を切り出した夜 答えを保留した夫は
私のベッドに入ってきた。
受け入れられるはずがない。なんでそんなことが出来るのだ…

けれど、私はどこか冷静に夫の反応をうかがっていた。

最後まで…

夫は私の中で果てることが出来るのだろうか…。

今まさに 

手放そうとしている妻と…。

夫の目を見つめ返すと
それを承諾と受けとめたのだろうか
夫は舌を絡ませ私の唇を吸い続けた。
下腹部に押し当てられた それは
十分な硬さを保ち続けていた。
私は上にまたがって、自ら迎え入れた。

ゆっくりと身体を上下させ腰を使った。

「離婚してお前、どうするんだ」

そう言って夫は私の動きに合わせて
下から突き上げた。


どちらが先に果てたのか…
そのまま眠りに落ちた夫から身体を起こすと
音をたてないように階下の風呂場へ向かった。
熱いシャワーを下腹部へあてながら
手でそっとゆすぐと とろりとした液体の感触がした。


それが

夫婦としての最後の夜だった。





夏の間に
財産分与など細かな取り決めをした。
遠慮したが義母が十分な額を贈与してくれた。
私はそれを 小さな中古マンションの頭金に使わせてもらい
大学の先輩を頼って就職先を得た。
相手の女性に会うことはなかった。
つわりが酷いという女性を 義母が見舞いに出かけたことは 隠していても何となくわかった。
家の中を徹底的に掃除して自分の痕跡となるようなものは、惜しみなく捨てた。
この家から持ち出すものもほんの身の回りの物だけにして新居で新しいものを揃えた。

そうしてあの日
嫁いでから8年を過ごした家を後にした。







布田駅で降りると、調布駅まで歩いてもいくらもない距離なのが改めてわかった。
和装小物を扱っていた店が閉店したのち
空き店舗のリノベーションも済んで
輸入家具やアンティーク雑貨を扱う店の開店にむけて徐々に商品の搬入が始まっている。
新しい店のショーウィンドーのディスプレイの依頼を受けていた。
今日は展示用に店から提供された商品と
こちらで用意した参考商品の相性を見て
足りないものは後から到着予定の同僚に
頼まなければならない。
塗装後の匂いがきついのと運び込まれる荷物の埃に
寒くても窓を全開にした。
この現場の相棒である狩谷君から 思いの外はやく
LINEが入った。

『甲州街道に入りました 混んでるけど流れてますよ そんなにかかりません』

追加の材料は明日にしよう。

『はーい 気をつけて…』

私は養生テープを持って狭いスペースへと入った。



狩谷君は昼前に、デリの袋を提げて現れた。

「万智子さん、お昼をすませちゃいましょう。」

「わー、なんだろう。どこに寄ったの?」

「現場が二子玉川だったのでー…」

トルティーヤとフライドチキン、カットフルーツが入っている。

「女性好みのセレクトだね。彼女と買い物とかするの?」

「違いますよー 万智子さんのイメージで選びましたー。」

狩谷君は、たしか私より7歳下で、他業種から転職してきたのは、私より半年ほど後だった。

「万智子さん、帰省とかするんですか?」

「しない、しない。雪は嫌いなの。あんな寒いところ冬はごめんなさいだわ。」

「それなら、横浜に遊びに来てくださいよ。案内しますから。」

「本当に押しかけたら困るでしょ?馬鹿ね…気を遣わなくても良いのよ。それに、はなから私が一人でお正月を過ごすと決めちゃって、失礼よ?」

「駄目ですよ、万智子さんの恋人候補は僕ですから。」

いつも、こんな風だ。
少し頼りないけれど、よく気のつく好青年。
弟のようで可愛い。

秋田の実家にはもう何年も帰っていない。
離婚のことも事後報告だったので、

「今さら文句も言えないじゃないか」

父はそう言って、不機嫌になった。
弟のお嫁さんと上手くいっていない母は、離婚した私が実家に戻るつもりがないことがわかると 寂しそうに電話を置いた。


午後は 本格的にディスプレイの作業に入った。
子供や部活帰りの中高生が足を止めて 作業を見ながら何やら楽しげに話している。
窓越しに 狩谷君と目が合うと 女の子たちは
キャーと歓声をあげた。


「イケメンだって」

「あ、やっぱり?」

「姉さんは鼻が高いわ」

「彼女っすよ」

「ばーか」

笑って仕事をしている今の自分にホッとしていた。

時間は流れている。
振り返る要素はどこにもない。

冬の夕暮れ時は あっという間に闇に変わる。
今日の作業を終えて仮止めのテープを切っている私の視界にその女性は入ってきた。

ガラスの向こう
通りのあちら側をゆっくりとした足取りで
歩く年配の女性。

ターコイズブルーのコートは、もともと華やかな顔だちの女性に よく似合っていた。


歩き方は杖に頼ってはいるが安定している。

お義母さん…

足元を見ると
私が買ったあの靴を履いている。


履いてくれたんですね…


そして もうひとつ気がついた。
杖を持つ反対の手に
お菓子の詰まった赤いブーツを提げている。

元気に育っているんですね。

あの家に
子供の笑い声や泣き声が響いているんですね。

妬みや羨望とは対局の心の奥の暖かな場所から
祝福の思いが溢れてきた。

時は流れている。
あの家族が幸せなら自分の生き方も肯定できる。
それでいい。


「万智子さん?」

狩谷君を振り返ったとき
自分がどんな顔をしていたのか想像できた。

「車を回してきます。片付け、いくらもないですよね。明日にしましょう。」

そう言って、ごみ袋をつかむと 裏口から出ていった。

もう一度、外を見ると義母の姿はなかった。





「寒くないですか?」

「ええ、あんまり暖かいと寝てしまうわ。」

「良いですよ。万智子さんの寝顔、見たいなー」

「こらこら」 

「事務所には電話を入れました。直帰して良いそうです。」

「でも、寄って貰おうかな…。明日の作業に使うものを乗せておかないと…」

「駄目です。デートの時間ですよ。」

「からかわないの。マンションに向かって良いわ。疲れちゃったし…」

「駄目です。」

私は狩谷君の顔を見た。
笑顔とは違うかな…。

「僕は真面目に考えてますよ。万智子さんから見たら頼りないことも承知してる。でも、一緒にいたいのは万智子さんだけ。幸せにしたいのも万智子さんだけです。」


公園の横で車を停めると
彼は改めて私の方に向き直り、そう話した。



「私は結婚に失敗した、狩谷君より7つも上のおばさんなの。恋愛を楽しむ相手ではないわ。」

「万智子さん。万智子さんの事を大事に思っています。僕じゃ駄目ですか?」

「私がさっき、泣いていたから?あれはね、」

なんて説明をするつもりだったのか 自分でもわからない。でも、説明するタイミングは奪われた。

突然のキスに。



長い…



長いキス。



一度唇を離したあともう一度受けとめた唇は
角度を変えながら今度は激しく舌を絡ませた。

彼は、弟のようだったか?

むしろ、彼の前で 自分の方が甘えていたかもしれない。
いつも、いつも。

車で小一時間
私のマンションに着くと
客であるはずの彼に手首を捕まれて先導され
部屋に入るなり再びキスの続きを
唇以外の場所にも受けながら

私たちは愛し合った。

万智子と呼び捨てにされ

狩谷君、ではなく



はじめて 

真咲 と呼んだ。