夫の祖母は長年 伯父夫婦と同居していたが
その伯父が急逝したため
次男である義父に介護を引き継いでほしいと
伯母から申し出があった
夫の実家は数年前 同居に備え二世帯住宅に建て替えた
一階には義父母が
外階段から上がる二階と三階部分は私たち夫婦と やがて生まれるだろう孫のために設計された
同居から4年、期待を裏切り私たち夫婦は子供を未だ授からないでいる
そこへ祖母の介護の話が持ち上がり
一階には祖母のために用意できる部屋はないという理由で息子夫婦の所で迎えてくれないかと提案された
「外階段は高齢者には向かないよ」
そう言って夫は難色を示してみたものの
「どのみち一人で出かけることはないし容易に外に出られたら 徘徊されて大変じゃないか」
「そうよ、茉莉花さんが早く孫を生んでくれていたら うちに押しつけられることもなかったのに」
「そうだなぁ…孫が出来たらその時はなんとかするからここはひとつ頼むよ」
結局 義父母は一歩も譲らず承諾もなにも
押しきられるかたちで話は進んだ
6月の初め
夫とふたりで伯母の家に祖母を迎えに行った
足を突っ張って車に乗るのを嫌がったが
伯母と私とでなだめやっとの思いで車に乗せた
痴呆が進む祖母は孫である夫のことはもちろん
私が孫の嫁だという認識はない
新しい住まいに落ち着いた頃になると
祖母は私のことを「リカちゃん」と呼び
人形を愛でるような接し方をする
毎朝時間をかけ私の髪を櫛でとかし丁寧に編む
だがそれ以外は赤ん坊の様に生活のほぼ全般を私に依存している
私が外出する時は義母がこちらへ出向いて
祖母の様子を見てくれたが、義母には心を開こうとせず 時に険しい顔で介助を拒んだ
夫は同じ部屋にいながらも祖母の存在を無視し続けた
ある夜
私たち夫婦が愛し合う寝室に祖母が突然入ってきて騒ぎになった
怒鳴り散らす夫に怯えまだ服を着ていない私にすがって泣かれたときは恥ずかしさといたたまれなさに私も泣いた
「年寄りに踏み込まれるような寝室ではお前を抱けない」
基礎体温をつけ
妊娠の希望を持ち続けていた私の願いは
あっさり踏みにじられた
子供を授からないことも
祖母を引き受けたことも
私ひとりが背負わされていると感じた
そのうちに夫は、くつろげないことを理由に公然と外泊するようになった
「私ひとりでは入浴させるのも大変なの」
「オヤジかおふくろに頼めよ」
「簡単に言わないで」
「子供がいれば 押しつけられることはなかったんだ」
「私たち…この先どうなるの?」
「だから…オヤジになんとかさせろよ」
「それを私から言うの?」
「面倒をみてるのはお前なんだから 一番言う権利があるだろう?」
「あなたのおばあちゃんなのよ?」
「俺は外孫だから可愛がられた記憶はないよ」
「お願い…うちにいてよ…ひとりにしないで…」
「わかった わかった今日は早く帰るようにするから」
そう言っては日曜の夜まで帰らない
いくら私が馬鹿だとはいえ夫が一人で週末を過ごすはずがないことくらいわかる
帰宅した夫が洗濯に出した衣類のなかに
茶色の長い髪が混ざっていたことがある
ポケットに入っていたコンビニのレシートに
パンストやリムーバーといった品目が印字されていれば 女連れだったことは一目瞭然だ
私がどんな状態であろうと朝が来れば
祖母の食事やトイレの介助をして
失敗したときは体を拭いて
着替えさせ
昼寝をしている間に
洗濯をすませ
再び食事とトイレ…
終わりのないローテーションに心が疲弊していく
7月の終わり
父の還暦を祝うため上大岡の実家を訪ねると
玄関で迎えてくれた両親は私の変貌に言葉を失った
「帰ることはない、うちにいなさい
あちらにはお父さんから連絡を入れるから」
「こんなにやつれて手を荒らして…
頑張ったねぇ茉莉花」
背中をさする母の胸で子供のように泣いた
それでも一番泣けたのは
顔を洗おうと洗面台の前に立ち
その日の朝 祖母が編んでくれた自分の髪を
鏡で見たときだった
自分が戻らなければ
祖母はどうなるのだろう
「おばあちゃんごめんなさい…
本当にごめんなさい」
右手で作った握りこぶしで左胸を何度も叩きながら
泣き崩れ、その晩から熱をだし 二日間寝ついた
翌週末 夫が訪ねてきた
声を荒らげる父を母がなだめ 二人でよく話すようにと諭された
不機嫌な顔をした夫がようやく口を開く
「帰ってくれよ、みんな困ってるんだ」
「必要なのはヘルパーとしての私でしょう」
「仕方ないだろう、誰かがやらなくちゃ」
「誰かではなく私でしょう?他にはいないもの」
「離婚するつもりなの?」
「知ってるの…あなたには週末を一緒に過ごす女性がいることも」
「ばあさんが来てからお前とおちおちセックスも出来ないんだ、わかってくれよ遊びなんだから」
「そばにいてほしかったの…優しい言葉で労ってくれたら 私だって頑張れるのに
それに…子供のことも諦めてはいなかったよ」
「施設を探してるから…それまでと思って帰ってきてよ」
わかっていた
この人に誠実さを求めても無駄なのだ
今まで何度も目を瞑ってきた夫の不誠実を
今はどうしても受け入れることが出来なかった
それから2週間後
荷物を整理するためにあらかじめ義父母にことわりを入れて平日の昼間に一度帰宅した
付き添ってくれた母と身の回りの物をまとめ
宅配便に引き取らせた
帰り際 一階に挨拶に寄ると廊下の奥から祖母が顔を出した
「リカちゃぁん」
片方の腕を前に伸ばしながら 反対の手で手すりをつかんで祖母はゆっくりと歩いてきた
「お下げに編んであげようなぁ…」
口許を押さえる私に代わり母が返事をした
「また今度お願いしますね ごめんなさいね」
「いやだよぅ…リカちゃん」
短く挨拶をして母に背中を押されながら
閉まる玄関ドアの隙間で 小さくなっていく祖母に手を合わせ頭を下げた
蝉の鳴き声に急かされながら 西日の当たるアスファルトを夢中で歩いた
駅で切符を買い改札を通ったところで気分が悪くなり 母に支えてもらいながらトイレに入った
力なく吐く私の背中をさする母が躊躇いながら訊ねる
「茉莉花…最後の生理はいつだったの?」

通路の突き当たりの窓の辺りで蝉が休みなく鳴いていた
唾液と汗で濡れた喉をかきむしりながら
負けないくらい
声をあげて泣いた…
その伯父が急逝したため
次男である義父に介護を引き継いでほしいと
伯母から申し出があった
夫の実家は数年前 同居に備え二世帯住宅に建て替えた
一階には義父母が
外階段から上がる二階と三階部分は私たち夫婦と やがて生まれるだろう孫のために設計された
同居から4年、期待を裏切り私たち夫婦は子供を未だ授からないでいる
そこへ祖母の介護の話が持ち上がり
一階には祖母のために用意できる部屋はないという理由で息子夫婦の所で迎えてくれないかと提案された
「外階段は高齢者には向かないよ」
そう言って夫は難色を示してみたものの
「どのみち一人で出かけることはないし容易に外に出られたら 徘徊されて大変じゃないか」
「そうよ、茉莉花さんが早く孫を生んでくれていたら うちに押しつけられることもなかったのに」
「そうだなぁ…孫が出来たらその時はなんとかするからここはひとつ頼むよ」
結局 義父母は一歩も譲らず承諾もなにも
押しきられるかたちで話は進んだ
6月の初め
夫とふたりで伯母の家に祖母を迎えに行った
足を突っ張って車に乗るのを嫌がったが
伯母と私とでなだめやっとの思いで車に乗せた
痴呆が進む祖母は孫である夫のことはもちろん
私が孫の嫁だという認識はない
新しい住まいに落ち着いた頃になると
祖母は私のことを「リカちゃん」と呼び
人形を愛でるような接し方をする
毎朝時間をかけ私の髪を櫛でとかし丁寧に編む
だがそれ以外は赤ん坊の様に生活のほぼ全般を私に依存している
私が外出する時は義母がこちらへ出向いて
祖母の様子を見てくれたが、義母には心を開こうとせず 時に険しい顔で介助を拒んだ
夫は同じ部屋にいながらも祖母の存在を無視し続けた
ある夜
私たち夫婦が愛し合う寝室に祖母が突然入ってきて騒ぎになった
怒鳴り散らす夫に怯えまだ服を着ていない私にすがって泣かれたときは恥ずかしさといたたまれなさに私も泣いた
「年寄りに踏み込まれるような寝室ではお前を抱けない」
基礎体温をつけ
妊娠の希望を持ち続けていた私の願いは
あっさり踏みにじられた
子供を授からないことも
祖母を引き受けたことも
私ひとりが背負わされていると感じた
そのうちに夫は、くつろげないことを理由に公然と外泊するようになった
「私ひとりでは入浴させるのも大変なの」
「オヤジかおふくろに頼めよ」
「簡単に言わないで」
「子供がいれば 押しつけられることはなかったんだ」
「私たち…この先どうなるの?」
「だから…オヤジになんとかさせろよ」
「それを私から言うの?」
「面倒をみてるのはお前なんだから 一番言う権利があるだろう?」
「あなたのおばあちゃんなのよ?」
「俺は外孫だから可愛がられた記憶はないよ」
「お願い…うちにいてよ…ひとりにしないで…」
「わかった わかった今日は早く帰るようにするから」
そう言っては日曜の夜まで帰らない
いくら私が馬鹿だとはいえ夫が一人で週末を過ごすはずがないことくらいわかる
帰宅した夫が洗濯に出した衣類のなかに
茶色の長い髪が混ざっていたことがある
ポケットに入っていたコンビニのレシートに
パンストやリムーバーといった品目が印字されていれば 女連れだったことは一目瞭然だ
私がどんな状態であろうと朝が来れば
祖母の食事やトイレの介助をして
失敗したときは体を拭いて
着替えさせ
昼寝をしている間に
洗濯をすませ
再び食事とトイレ…
終わりのないローテーションに心が疲弊していく
7月の終わり
父の還暦を祝うため上大岡の実家を訪ねると
玄関で迎えてくれた両親は私の変貌に言葉を失った
「帰ることはない、うちにいなさい
あちらにはお父さんから連絡を入れるから」
「こんなにやつれて手を荒らして…
頑張ったねぇ茉莉花」
背中をさする母の胸で子供のように泣いた
それでも一番泣けたのは
顔を洗おうと洗面台の前に立ち
その日の朝 祖母が編んでくれた自分の髪を
鏡で見たときだった
自分が戻らなければ
祖母はどうなるのだろう
「おばあちゃんごめんなさい…
本当にごめんなさい」
右手で作った握りこぶしで左胸を何度も叩きながら
泣き崩れ、その晩から熱をだし 二日間寝ついた
翌週末 夫が訪ねてきた
声を荒らげる父を母がなだめ 二人でよく話すようにと諭された
不機嫌な顔をした夫がようやく口を開く
「帰ってくれよ、みんな困ってるんだ」
「必要なのはヘルパーとしての私でしょう」
「仕方ないだろう、誰かがやらなくちゃ」
「誰かではなく私でしょう?他にはいないもの」
「離婚するつもりなの?」
「知ってるの…あなたには週末を一緒に過ごす女性がいることも」
「ばあさんが来てからお前とおちおちセックスも出来ないんだ、わかってくれよ遊びなんだから」
「そばにいてほしかったの…優しい言葉で労ってくれたら 私だって頑張れるのに
それに…子供のことも諦めてはいなかったよ」
「施設を探してるから…それまでと思って帰ってきてよ」
わかっていた
この人に誠実さを求めても無駄なのだ
今まで何度も目を瞑ってきた夫の不誠実を
今はどうしても受け入れることが出来なかった
それから2週間後
荷物を整理するためにあらかじめ義父母にことわりを入れて平日の昼間に一度帰宅した
付き添ってくれた母と身の回りの物をまとめ
宅配便に引き取らせた
帰り際 一階に挨拶に寄ると廊下の奥から祖母が顔を出した
「リカちゃぁん」
片方の腕を前に伸ばしながら 反対の手で手すりをつかんで祖母はゆっくりと歩いてきた
「お下げに編んであげようなぁ…」
口許を押さえる私に代わり母が返事をした
「また今度お願いしますね ごめんなさいね」
「いやだよぅ…リカちゃん」
短く挨拶をして母に背中を押されながら
閉まる玄関ドアの隙間で 小さくなっていく祖母に手を合わせ頭を下げた
蝉の鳴き声に急かされながら 西日の当たるアスファルトを夢中で歩いた
駅で切符を買い改札を通ったところで気分が悪くなり 母に支えてもらいながらトイレに入った
力なく吐く私の背中をさする母が躊躇いながら訊ねる
「茉莉花…最後の生理はいつだったの?」

通路の突き当たりの窓の辺りで蝉が休みなく鳴いていた
唾液と汗で濡れた喉をかきむしりながら
負けないくらい
声をあげて泣いた…