スティーブン・メトカルフ『季節はずれの雪』を読んで(隔月誌『悲劇喜劇』2024年1月号掲載) | 日々感じたこと・読んだ本

スティーブン・メトカルフ『季節はずれの雪』を読んで(隔月誌『悲劇喜劇』2024年1月号掲載)

スティーブン・メトカルフの戯曲『季節はずれの雪』を読みました。

 

 掲載された『悲劇喜劇』の2024年1月号が「アイルランド演劇」の大特集で、3つの戯曲の三本目に掲載されていたので、他の2本の戯曲と同じく「アイルランド」の脚本かなと、思って読み進め、すっかり頭の中がアイルランドになっちゃっていました。

 

 この戯曲の前に掲載された2つの戯曲同様に、二人で同じ屋根の下に住む肉親だからこその、相手に対する九分の反発・嫌悪・諦念と、一分の連帯感・愛情 が濃厚に展開されている筋書きを楽しみながら、

「やはりアイルランド演劇は独特でいい」

なんて思ってたんです。

 

ところが・・大きな間違いがあったのです。

 

 登場人物が、アメリカメジャーリーグのボストンレッドソックスの帽子をかぶっていた上に、彼らが実はどうやらベトナムの戦地で戦った経験があるようなことが出てきて、「たしかにアイルランドでもアメリカのプロ野球は人気なんだろうね。しかもアイルランド系が多いボストンのチームだし」とか「アイルランドからベトナム戦争に志願したのかな?」などと少し訝しく思い始め、そして、ついに物語の半分を超えたあたりで、これってアイルランドとは全く関係ない、アメリカの作品だったと知り、なにやってんだい、と恥ずかしいやら腹立たしいやら(笑)

 

閑話さておき。

 

すごく切ない物語です。

 

過去への追憶、亡くなってしまった人への想い、後悔など。

 

三人の登場人物それぞれのとりかえしのつかない半生の

凄惨な瞬間や陰鬱な期間を

「意味があった」として懐かしむ者(メグス)

「なかったもの」として記憶から消し去ろうとする者(デイブ)

ずっと「引きずって」いて人生をあきらめつつある者(マーサ)

 

そしてそれぞれがそれぞれの理由で

「孤独」に今を生きています。

 

なんだかスタインベックとサリンジャーをたして2で割った感じ。

あ、これは作者に失礼なものいいをしてしまいました。

私の悪い癖です。

悪癖ついでにいうと、哲学者キルケゴールの

「過去を反復する者は淫らであり、過去を想起するものは勇気を持つ」

という言葉を思い起こしました。

 

それにしても、メグスはなんといいやつなんでしょう。

 

アメリカ文学史上最もピュアで、痛ましく、心根が善良な男かと思えます。

これはスタインベックの「二十日鼠と人間と」の大男だったり、

ヘミングウェイの短編「拳闘家」に出てくる黒人だったり、

ひいてはサリンジャーの「ライ麦」のホールデン・コールフィールドにも通じるセンスがあるように感じます。

いいやつだからこそ、その心に落ちているどす黒い影を哀しくおもってしまいます。

 

そして同じくらい善良で地味なマーサ。

 

マーサの存在自体が胸にささります。

マーサのような女性は声が上がらないだけでたくさんいるかと感じます。

こちらは、サリンジャーの「コネチカットのひょこひょこおじさん」の主人公にも通じるものがありました。「思い出はすべて薄桃色」(エミリー・ディッキンソン)という詩の一節も思い出します。

 

このメグスとマーサの不器用な二人が初めて出会い、ためらいながら心を開きます。

読む者は、この幸薄かった二人の幸せを願わずにはいられません。

ところが、恋に落ちる寸前で・・・・。

 

やはり人間は時代と環境に翻弄されざるを得ないちっぽけな生物なのかな・・・

どうなんでしょう・・。