事業所の通信に3回にわたって掲載させていただいた最後の分をアップしました。

初めてこのブログを読まれた方はなんのこっちゃとお思いかもしれませんが、私は障害者対象のヘルパー派遣事業所をやっていてそこで毎月利用者やヘルパー向けにいろんな情報を掲載した通信を発行しています。HPも出していますのでそちらもよかったらみてください。



二回にわたって掲載させていただいた南相馬報告の最後は津波と原発についてです。

このあたりで津波が起きたのは太古の昔の話で、だから津波なんて考えもしなかったとおっしゃっていたぴーなっつの青田さん。津波についてはほとんど知識がなく、亡くなる方が出るのは溺れるためだと思っていたそうだ。今ではすっかり専門家並みになりましたと話されていた。作業所があるのは海岸線から2kmちょっと陸地に入ったくらいの場所で、案内していただいた作業所の裏側、海岸線から2kmは海に沿って広く開かれた平地で、そこは未だに建物の基礎だけが残されている壊滅状態だった。堤防ごと流され橋は砕けたまま。海岸はサーフィンの国際大会を開催するような有名な浜だったそうだが、そのためにかなり賑わった集落があったらしい。そこから少し遠めに見える火力発電所の巨大クレーンが途中部分から屈折していてあの高さまで津波が来たんですねと静かに語ってくださった。

このあたりは第1波が56m、第2波は1520mくらいあったということで、地震発生から15分くらいで津波は到達しその間にも大きな余震は続いていて、2km四方の平地ではとても逃げ切れない。津波にあった他のエリアもそうだと思うが、海岸線に沿った道は高台を走っていると民家も普通に建っていてよくみる田舎の風景だが、坂を下って視界が広がるとそこには何もない更地になっていて、こんな状況が遠く松島までずっと続いているという。

松川浦漁港を案内していただいた時にNPO法人コーヒータイムの橋本さんもおっしゃっていたが、家人を心配して海岸近くに戻った方が被害にあわれ、家人は必死に逃げて何を逃れている。あまりにも悲しすぎる話だ。

南相馬から相馬市へと続く国道沿いにはソフィア・ローレンが主演した映画のラストシーンのように一面にひまわりが咲く景色が広がっている。ヘンリー・マンシーニの哀愁漂う曲が脳裏に流れる。ひまわりは放射能を土壌から浄化する効果があるため震災後にできたものだ。福島は東北の他の各県と違い、原発被害にも苛まれている。20km圏内はいまだ立ち入り禁止、10月になって緊急時避難準備区域の警戒が解かれた南相馬の20km~30km区域はお伺いした当時、学校は休校状態で子どもがいる多くの家族が住みなれた土地を離れていった。実際の放射能被害だけでなく、風聞被害や差別も蔓延している。青田さんが案内してくれた車内の中で静かな怒りとともに語っていたのは、この先南相馬市は高齢者や障害者とその家族、介護人だけが住む未来の見えない土地になってしまうのではないか、来年4月までに今の小学6年生や中学3年生のかなりの数が転校するだろう、2011年度卒業と証書に残ると将来の結婚などに影響を受けるから。あまりにもばかげた話だと思ってしまうが実際に隣県に移っていった子どもたちが同種のいじめや差別を受けているという話を聞くことも少なくない。

今回お伺いしてお話をうかがったほとんどの方が、福島のことを忘れないでほしい、自分たちが負った経験を生かして他の地域では津波について原発について、同じような被害を繰り返さないための教訓としてほしいと話されていた。

被災地支援を早くからおこなってきた大田区の民間グループでは南相馬の公共交通が完全復旧するまでの限定プロジェクトとして南相馬のNPO法人と連携して移送サービスの提供をスタートさせた。

各地から集まったきょうされんの方たちにつながることの大切さを学び、南相馬のみなさんに発信することの意味を教えていただいた。

私自身も何ができるか考え継続したつながりをもつ支援を続けて行きたいと思う。そしてお世話になったみなさんたちと再会する日をできるだけ早く実現したい。

とても期間が開いてしまいましたが、事業所で出している通信とHPの職員つぶやきブログにも本日アップしました。前回書いた分も併せて引き上げておきます。




今回は南相馬にお伺いした際にたいへんお世話になったディさぽーと ぴーなっつの理事長青田さん、施設長の郡さんからお伺いしたお話をご紹介していきます。



8月20日()


前日の夜飛び入りで参加させていただいたきょうされんの慰労懇親会だが、きょうされんについては最初は職員等の保険加入や各種情報元としての利用くらいしかしていなかったけれど、今回の震災ではすぐに支援にきてくれてほんとうに感謝していると郡さんは話されていた。


地方はガイドヘルプ利用が少ないと語られていた青田さん。その理由としては電車やバスなど交通機関が限られていること、なにより特別支援学校が県内に1つしかなく遠方の人は寄宿舎に入るため卒業後も地域に戻る環境がなくそのまま入所するケースが多くどうしても一極集中になってしまうという。また介護保険と一緒にやっている事業所は多動の方に対応できるスタッフが少なく、障害者への支給決定は居宅でも一日2hが限度、知的障害者だと2日に一度2h程度が実情なようだ。


3月111426。それまで津波に関してはほとんど知識がなく、実際近代ではまったくなかったので想像もしていなかったという。このあたりでは第一波は56mくらい、けれど第二波は1520mくらいで20km圏内はすべてさらわれて当初は瓦礫さえなかったそうだ。そしてその後おとずれた原発事故。病院や高齢者施設が退避を始めるが自衛隊は遺体捜索に追われていて搬送手段がなく、3/19になってようやく千葉や埼玉のバスレンタル会社動いて搬送され、一般の方は南相馬市長が避難を呼びかけ前日夜に説明会があり翌朝800にはどこに行くかもわからないバスに乗るか残るかの判断を迫られた。72,00近い人口が一時的には8,000人くらいまでになり残されたのは高齢者や障害者、その介護に携わる人と役人くらい。被災者の捜索は高齢者を連れて行けない40代~50代の介護者世代、地元の消防団がはっぴ姿で真っ先に行い、少し落ち着いてから防護服に身を包んだ自衛隊や警察、消防関係者が入ってきたという。郡さんのお話の中で最初の頃避難している友人たちから心配して電話がかかってきた時にみんなが口々にあなたたちは防護服を着ていないの?と聞いてきたという。現実には寒さしのぎにジャケットを着ていたくらいでしたという。


ぴーなっつは3/14に大きな余震がありその時点で無期限休業。なんとなく逃げそびれた感じで残ってしまったとおっしゃる郡さんやスタッフの方が20名ほど残っていた利用者宅を巡回している時に60人ほど残っていた高齢者施設を発見し、逃げ遅れた方たちを搬送するのがしばらくの仕事になっていたという。3週間くらいして屋内退避していた利用者が限界になり、また一時避難していた自閉症の方々も避難所にいられなくなって戻り始めて再開が望まれていたが30km圏内は緊急時避難準備区域になっているため許可が下りない。自主的にやってしまうという話も出たがそれではスタッフが疲弊して長続きしないという郡さんの主張があり承諾書や緊急体制のマニュアルを作成、市に交渉して最初はだめから検討中、OKではないが自己責任であれば、最後は福祉部長が市で100%出すと決めて県や国も追従する形になったという。


残ることを選択した市民の方たちもそれぞれに支えあい、八百屋や肉屋が再開。NPOでやっている方が杉並区まで買い付けに出たりしていた。またガソリンは横浜から搬送してもらい、また避難をした業者が軽油を市に委ねていたものを回してもらったりしていたという。ぴーなっつはきょうされんからの支援物資が届き、施設関係者だけではなく残られた地元の方たちにも提供していて、実際私たちがうかがっている間にも何人もの方が支援物資を取りに見えていた。


理事長の青田さんは自分たちの役割はこの経験を情報発信して各地域での情報拡散、それぞれのエリアで同様のことが起きた時の体制を話し合う機会を呼びかけていきたい、この震災を忘れない仕組みや継続する支援の形を考えていきたいと話してくださった。その一つとして放射線除去によいとされているひまわりの種を同封した缶バッチの販売も始めている。


名残はつきなかったが、とりあえずおいとまをして午後からは再びコーヒータイムの橋本さんにご同行いただき鹿島区にあるNPO法人で精神の作業所あさがおさんをご紹介していただきお話をうかがった。震災前は地産地消での農作物や青ばた味噌などを作り作業所の主幹となっていて当日も大量のお弁当の受注を受けて作業をしていた。震災後最初は60km離れた場所へ、さらに山形の上山市まで避難していたがやはり限界がきて3/31南相馬に戻り、都内で青ばた味噌などを販売してその売り上げは義捐金として南相馬市に全額渡した。けれど30km圏内作付け禁止となり、震災以前に作った物も風評被害で売れなくなったしまったと話されていた。


NPO法人あさがおさんからはお話の後に今度の震災のことをまとめた8分の自主制作動画をデータでいただきました。拡散OKということなので希望の方はちくりうす事務所までご連絡ください。



鹿島区から原町区への帰り道に橋本さんに海岸線を通っていただき、三度ぴーなっつへ戻って青田さんにぴーなっつのすぐ裏手の海岸線を案内していただいた。未だに残るすさまじい津波の爪痕については三日目に橋本さんに案内していただいた松川浦漁港と合わせて次号にてご報告します。

その後一度宿に入って休憩した後に、再びぴーなっつへ伺って懇親会に飛び入り参加させていただいた。


ぴーなっつは震災後残った職員が代表理事の青田さん、施設長の郡さん、主任の石田さんだけで、JDF(日本障害者フォーラム)がきょうされんに加盟されている作業所から支援チームを組織して、週毎にスタッフを派遣して運営されている。


参加されているメンバーは各作業所の責任者クラスの方が多く、地域も大阪や長崎、鹿児島、横浜など全国から集まってきていた。

みな口々にこのまま残りたい気持ちを持ちつつもそれぞれの地域に帰っていく複雑な気持ちを語っていた。


利用者は週毎に入れ替わり立ち代りスタッフが代わることに混乱しないのかという質問に対して青田さんは利用者はたくましく、順応していきましたと話してくれた。


独特の個性を持った主任の石田さんがさりげなくみんなにお酌をしたりしながら気を使う姿がとても心にしみてきた。


あっという間の2時間は過ぎて宿に帰り、一日を振り返ってみた。


とても疲れているはずなのになかなか寝付くことができなかった。

(つづく)


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