「委ねたい、流れに任せたい」

そう、常に思っているけれど
それをする事は常に恐怖を感じている

なぜなら、
委ねてしまったら、自分が不要になってしまうんではないか?
自分を認めてもらいたいという事が叶わなくなる不安

そして
自分が気づいていない更なるパワーを
認める事は出来ない

究極的には
この2つの思いで揺れ動いているのかもしれませんね


創世記では
アダムとイブがお腹が空くと、
鳥が果物を落としたり
ちょうど良いタイミングで
果物が目の前に落ちて来たり…自分でするという事はありませんでした

しかし、イブがリンゴを食べた瞬間
羞恥心が芽生え、衣服を着たり
自分でなんとかしないといけない!!という思いが芽生え
エデンの園から逃げ出した
と、表現されています。


自分でやらないといけない!という
『自我』が出来てしまい
そこから自分の世界が出来、分離が始まったという事なんだと思います

私たちは
深い所で
分離から、統合に戻るか
いつも突きつけられています


心を野放しにすると
元々『分離』としての自己を見る様にインプットさられているので
すぐに分離や本当ではない苦しみの世界に埋没してしまいます

しかし、神聖という心の深い所にある考え方に従う事こそ
委ねる事と一体です

なぜなら、その深い所は分離ではなく、
一体としてあらゆるものと繋がっているからです
すなわち創造主、神と繋がっている無限な場所なのです


私は出会う人の
最善最高の強さを
関わりが終わった後も
祈りとして見て行きたい

そう出来るだけ心かけたいと思ってます

私が相手の強さを見るという事は
その方が自分の強さに気づく力になるからです

みんな繋がり合っているので
自分自身の思考は、他の人に影響を及ぼします


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委ねるということは、
結果に対する拘りを捨てることです。

神に委ねる時は、
物事が外でどう起こるか、
それに対する執着心を手放し、
心の中で生じることにもっと関心を向けるようになります。

人を愛する時、
誰にとっても最善になる出来事が起こるような環境に身を置きます。
私たちは何がどう起こるのかは分かりませんが、
またそれを知る必要もありません。

私たちに出来ることをしていれば、
神は神自身の役割をしてくれます。
どんな状況でも私たちのすることは、
愛の心でいることに抵抗するのを止めることです。

人間関係は契約です。
人と人の関係は、私たちが悟るための大きな計画の一つです。
各魂が大きな気付きと愛を育て大きくするための
スピリットの神聖な青写真です。

それがあって人が出会い、
お互いに成長する機会が最大限に手にすることができるのです。
神聖な関係においては、私たちは誰もが癒す必要なところを持っており、
癒しには人と一緒にいることが必要なのです。

人間関係というのは、自分の弱さを隠そうとするのではなく、
お互いに許すプロセスなのです。
アダムとイヴはエデンの園で裸でしたが、
恥ずかしさの余り戸惑うことはありませんでした。
それは、何も身に着けていないことに戸惑わなかったという意味ではなく、
心情的に裸になって、完全に真実、正直であったという意味なのです。
でも二人は、完全に自分自身を受け入れていたので恥ずかしい思いはしませんでした。


Marianne Williamson–

翻訳 ライトワーカー・マイク







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