2024年4月26日

朝のニュースを聞いてびっくりです。

まだまだ、お元気のことと思っておりました。笠谷さん。

23日、札幌でお亡くなりになったのですね。

その日、私は秋田におりました。少しは近かったでしょうか。

心から、ご冥福をお祈り申し上げます。

 

我が家にあった、古い新聞・・・

 

勝手に原田雅彦さんの伝記を書いておりますが、笠谷さんは2回、登場します。

私は専図恊の会議で札幌に出張していました。

そのとき、記念講演会の講師だったのが笠谷さんです。

(図書館と全く関係ない方でした)

 6月、札幌に出張した。会議のあとに記念講演があった。偶然にもウィンタースポーツ、ジャンプについての講演だった。講師は当時ニッカウヰスキー広報部長で、札幌オリンピックの日の丸飛行隊、金メダリストの笠谷幸生さんである。
 彼は、リレハンメルオリンピックでの荻原、原田の話、そして札幌オリンピックのエピソード、ジャンプ界の現況-Ⅴ字ジャンプ習得による成功、長野オリンピックに向けての作戦などを語ってくれた。原田選手に対するマスコミの厳しい批判を、すごくすごく擁護してくれた。原田のことを「コメディアン原田」と評していたように思う。よい意味で。「リレハンメルの悲劇」を悲劇で終わらせないために、原田は笑顔で次のドラマを演じきらなくてはならない。そう思った。

 

もう1回は、原田選手が絶不調の中で出場した世界選手権でのエピソード。

 前回ノーマルヒルのディフェンディングチャンピオンとして出場した原田のリザルトは52位。2回目にすら進めない惨敗だ。優勝は同じ日本チームの岡部、準優勝は斎藤。祝勝ムードの中、原田はいたたまれない思いだったと推測する。
 このときの逸話がある。原田は、試合で2回目にも進めず、バスの中でひとりぽつんと座っていた。そんな彼に日本チームに同行していた札幌オリンピック金メダリストの笠谷さんがひとことだけ声をかけた。
「おまえのおかげで若い選手が活躍できたんだ」
原田の悔しい気持ちも、つらい思いも酌んでくれた言葉だった。この言葉が励みになり、のちの活躍にもつながったと原田は述懐している。(日本経済新聞 交遊抄20113.8.22)

 

小野学さんも失ってしまった。

笠谷さんも失ってしまった。

 

そういう年代なんでしょう。

原田さん、ジャンプ界をしょって立って、もらえますか?

 

追記

原田さんのコメントは次の通り。

笠谷さんは札幌オリンピック金メダリストとして、もちろん憧れの選手でしたが、私は指導者となられてから大変お世話になりました。
常に寄り添い、たくさんのことを教えていただき、私が途方に暮れた時も、力強く励ましてくれたこと、今でも忘れません。
そのおかげで自信を持ち、ジャンプ選手として成長できたと思っています。
スキー連盟やJOC(日本オリンピック委員会)理事などの時も、オリンピックのたび、ジャンプを助けていただき、長野では世界一へと導いてくれました。
本当にありがとうございました。心から感謝し、尊敬しています。