中国最初の皇帝はそのまんま始皇帝、では最後の皇帝は・・・?
普通なら溥儀、もしくは袁世凱ということになるが、実は袁世凱以降にも皇帝即位を宣言した人々が中国にはいた。
中国にそれをまとめたサイトを見つけたので、それに基づいて簡単に紹介する。
時期は文革終了後の76年から90年代、地域は四川省・湖南省・河南省といったあまり中央政府の統治が及んでいない地域に集中している。
大中華仏国(1947-1953,1983)
1947年、石頂武が皇帝を自称して武装蜂起を起こし処刑された。滅亡から三十年後の1983年、息子の石金鑫が丞相・李丕瑞の補佐のもと湖南省醴陵の農村で即位し大中華仏国の再興を宣言したが、ただちに地元警察により解体された。
後主・石金鑫
道徳金門教国(1981-1990)
1981年、盲人の丁興来が湖北・河南・安徽三省の境界にあたる大別山にて道徳金門教を創始し、道徳金門皇帝を自称、皇后二名や宰相を含む二十一名に位を授け、四十一の「仙印」を下賜した。まったく人の行き来のない地方にあったことから教国は十年間誰にも発見されず、1990年にようやく郷(県と村の間に位置する行政機構)の役場により解散を命じられた。
中原皇清国(1982)
1982年、正皇帝・張清安および副皇帝・廖桂堂が四川省の大巴山で即位を宣言した。玉璽・後宮をつくり、丞相や文武百官の制度を整え、天律森吏という法制度を発布した。巴中県を首都とし、巴中川劇大楼(伝統歌劇の劇場)を宮殿とすることを定め、蒋介石を諸侯として威国王に封建する詔書を郵便局から送り、北京に皇帝親征を行うことを決定したが、親征直前、地元警察署の手により滅亡した。(見ず知らずの農民から一方的に封建された蒋介石も迷惑だったでしょう・・・というか、それ以前に蒋介石は75年に亡くなっているのだがそれを知らなかったのか)
蒋介石を皇帝の下の王として封建する詔勅
聖朝国(1980-1982)
1980年、林文勇が四川省の大巴山儀龍山区で皇帝即位を宣言したが、地元警察署の手により滅亡した。
玉皇大帝(1982)
1982年、四川省大巴山で曹家元が玉皇大帝に即位することを宣言したがただちに滅亡した。
皇帝朱仕強(1980)
1980年、四川省大巴山で朱仕強が皇帝に即位することを宣言したが、七日後、村長の手により滅亡した。
大聖王朝(1986-1988)
1986年、女帝・晁正坤が山東省の膠東半島で即位し、巫術を駆使、男児を集めて「後宮」を設置したが、二年後、県の役所により鎮圧された。(ショタコンおねえさん・・・)
女帝・晁正坤
万順天国(1990-1992)
1990年、河南省西部で李成福が安民党および万李起義軍を創立、自ら唐皇室の末裔を称し、毛沢東主義の「農村が都市を包囲する」という理念に則って唐王朝の復活を画策した。かつての唐王朝に倣って首都を西安に定める詔勅を発布するも、郷の警察署が三名の警察官を派遣して滅亡させた。その後、李成福の息子・李欲明が村民たちに擁立されて皇位に就き、李成福の妻が皇太后として垂簾聴政を行った。八名の兵力を擁し、丞相を置いた。また、宮殿の建設を行ったが、資金不足により途中で瓦ぶきの小屋となった。国勢調査の際に無断で皇位に就いたことが発覚し、再び警察署により滅ぼされた。(毛沢東主義に則って封建王朝を再興するむちゃくちゃさ・・・)
大有王朝(70年代末から80年代初頭)
安徽省烏江で一人っ子政策に反発した元村医者・曽応龍が皇帝に即位した。農村において建国を宣言し、数百人の軍勢を率いて県の中心都市に攻め込み、県立病院を陥落させてすべての医師および看護師を俘虜とした。病院内のすべての避妊器具を焼き捨てさせ、県史に「県城にゴムを焼く」という言葉を残した。ただちに出動した人民解放軍が県立病院を包囲し、皇帝・曽応龍とその禁衛軍は勇敢に戦ったものの逮捕された。戦闘の中で二名の看護師が犠牲となったことから本来皇帝は死刑となるはずであったが、あまりにもバカすぎるから、という理由で減刑され、無期懲役となった。
大明国(2010-?)
陝西省商洛市商南県の陳譜が2010年5月29日、大明国の建国を宣言、聖武皇帝に即位し、元号を聖武と定めた。明王朝の後継であるとし、その旨を万民に告げたが、その後一切の消息がない。
中国サイトによると、このように無断で皇位に就いた事件は数百件にのぼり、百人以上の皇帝が検挙されたという。
検挙者が事件数のわりに少ないのは、同じ人物が何度も懲りずに重祚したのか、軽微な犯罪として検挙には及ばなかったのか・・・?