地震後の自宅の写真です。

被害の大きかった部屋の写真です。

記録のために載せますが、見たくない人はご遠慮ください・・・。


私の部屋兼物置。

すべての家具が倒れてましたが、すべて元通りに直りました。


育児diary☆心に咲く花☆


旦那さんの部屋。

こちらも机以外倒れました。

テレビ、パソコンは無事を確認しましたが、プリンター、DVDは未確認です。

テレビは、まだアナログなので、壊れていてもショックはなかったけど、無事でした。


育児diary☆心に咲く花☆


キッチン。

ここが一番被害大きく、掃除も一番大変でした。
食器はほとんど飛び出し、9割が割れてしまいました。

上の食器棚は耐震ロックがかかっていたので、飛び出していないと思ったのですが、

開けてみたところすべて飛び出ていて空っぽになっていました。


育児diary☆心に咲く花☆

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バスルーム。

こちらもすべて倒れましたが、掃除は簡単でした。


育児diary☆心に咲く花☆


小物たちが洗面台にキレイに収まっていた。。


育児diary☆心に咲く花☆


こうやってみると、私たちがいたリビングダイニングが一番被害が少なかったと思います。


おやつ食べている時で本当に良かった。



簡単な荷物を持ち、すぐに家を出ました。


もちろんエレベーターは停止していたので、階段でおりました。


途中、外壁の一部が崩れ落ちていたり、室外機がぶら下がっていたりと、ところどころで地震の被害が見受けられましたが、家の中に比べたらたいした事ないな、そういう印象を受けました。


車に乗り、義実家に向かう途中も、街は暗く、お店も閉まっていて普通ではない風景が漂っていました。


けれど、その時も、津波で膨大な被害が起きている事、東日本がこんな事態になっている事など、全く知りませんでした。


義実家に着き、義両親の顔を見て、旦那さんの話で、義両親が無事という話は聞いていたけど、安堵で涙が出ました。


義実家も、もちろん停電しており、真っ暗。

懐中電灯とろうそくの光がほそぼそと手元を灯していました。


でも、水道は止まっておらず、

石油ストーブで暖も取れ、

ガスボンベで料理も作れていたので、温かいご飯を食べる事も出来ました。


義両親は30年ほど前の宮城県沖地震を経験しているので、すごく冷静、そして知恵がありました。


家も地震があったとは思えないほど、キレイに片付いていたので、食器など壊れなかったのかと尋ねたら、

「たくさんダメになったよー。でも、停電と分かっていたから、暗くなる前に危ない物は一番に片づけたんだよ」そう教えてくれました。

そして、地震直後はガスも使えたらしく、野菜炒めも作っていました。

さらには、水道がいつ止まるか分からないからとお風呂にも水を貯め、置き水も。


私なんて「怖い怖い。」そうあたふたするだけで、なんも動けなかったのに。

本当に頭の下がる思いでした。


ご飯を頂いたあとは、みんなでラジオを聞いていましたが、私は映像がないため、この時も、どんな状況なのか、いまいち頭に入って来ませんでした。


が、次の瞬間、

「若林区荒浜の海岸で200~300人の遺体発見」

その言葉を聞いた瞬間、ゾッとしました。


若林区荒浜は、義実家から数キロしか離れていない場所。

よく海水浴に行っていた思い出ある場所。

その場所が遺体で溢れているなんて。

言葉が出ませんでした。

でも、その時は気付かなかったけど、

そのニュースは、これからどんどん明らかになってくる被害のほんの一角に過ぎませんでした。


そのニュースを聞き、もうニュースは聞きいていられない気分だったので、

その日は、早めに布団に入りましたが、

何度も来る余震と、自衛隊のヘリが行きかう音でほとんど眠る事は出来ませんでした。



3.11おわり















またまた地震関連の記事で申し訳ありません・・・。

記憶が薄れないうちに記録に残しておこうと思います。



地震発生時、私とみさきは2人でマンションにいました。

お友達と遊び、帰宅直後で、ドラマを見ながらおやつを食べているところでした。


突然ミシミシと家が揺れ始め、それと同時にみさきを抱っこしました。


宮城では数日前から地震が続いていたので「また地震!?」という思いと、直感で「宮城県沖地震来たかも」という思いが同時に押し寄せていた気がします。


その揺れは、一瞬で今まで経験した事のない揺れへと化し、立っていられないほどになりました。


とにかく、身を守らなければと、みさきを抱き、よろめきながらダイニングテーブルの下にもぐりました。


だけど、揺れはいっこうに収まらず、逆に強さを増して行きました。

家具家電は次々に倒れ、ついていたテレビが消え、ガシャンガシャンと食器が割れ、ダイニングにもたくさんの食器が飛んで来ました。


ここまででどのくらいの時間だったか分かりませんが、本当に長く感じて「このまま家が崩れて死んでしまうんじゃないか」その時は本気でそう思い、震えが止まりませんでした。


みさきも、震え泣きじゃくり、恐怖に怯えていました。

なんだろう、この時は「何が何でもこの子を守りきらなきゃ」って、それ以外の事は何も考えられなかった。

そして、みさきに「大丈夫だよ。ママが守るからね。」

何度同じ言葉をかけたか分かりませんが、強く抱きしめ、そしてそう言い続けました。

今思えば、みさきにかけた言葉だったけど、自分自身に言い聞かせていた言葉でもあったのかもしれません。


そうやっているうちに、だんだんと揺れが収まり、揺れが弱まった隙をみて、テーブルの上に置いてあった携帯を取り、またすぐにテーブルの下にもぐりながら旦那さんに電話をかけました。


その時点で、回線がマヒしてしまっていて、なかなか繋がりませんでしたが、それでも何度も何度もかけ続けました。

この間も何度も強い余震が私たちを襲いました。


数十分後、ようやく電話が繋がり、旦那さんの無事を確認出来ました。

「みさきと(私の名前)も大丈夫か?俺は無事だよ。とにかく、いつ帰れるか分からないから自宅待機してて。それと、収納の中に携帯の電池式の充電器と懐中電灯あるから出しておいて。みさきを頼む。また連絡する。」

そう短い会話をして電話を切りました。

電話が繋がるまで、無事が確認できるまで、本当に不安でしたが、旦那さんの声が聞けて本当に安心しました。


そして、旦那さんに言われた通り、充電器と懐中電灯を取り出しに収納庫に足を運びました。

この時初めて、ダイニングから出ました。

収納庫、私の部屋、パパの部屋、そして玄関までも見事に家具家電小物、とにかく何から何まで倒れ、足の踏み場もなくなっていました。

ただ、立ち尽くし、何も手を付けられず、またダイニングに戻りました。


その後も、数えきれない強い余震が私たちを襲いました。


だんだん日も暮れ始め、みさきは、余震が来る度泣きじゃくりました。


「じしん、こわい、こわい、あっち(外を指さして)いく、ママいこう」

この言葉は今も続いています。


停電しているため、電気は付けられず、テレビも見れないため、今どんな状況なのか分からないままみさきと布団にもぐって、旦那さんの帰りを待ち続けました。


みさきはウトウトしかけては、地震で飛び起き、泣きじゃくる、それを何度も何度も繰り返しました。

可哀想で、でも、どうしてあげる事も出来なくて本当に胸が締め付けられました。


結局旦那さんが家に着いたのは、7時30分すぎでした。

電話したあと、すぐに帰れたそうですが、バイパスは既に大渋滞。

いつもなら20分くらいで着く道のりを4時間以上かけて帰宅したそうです。


また「義実家か、避難所があれば避難所に移動して」「会社出た」「今○○付近」というメールをくれていた事をあとで知りました。



とにかく、旦那さんの顔を見れて本当に安心しました。


そしてすぐに「実家に避難しよう」と、簡単な着替えとおむつだけを持って、義実家に避難しに行きました。



つづく