1995年の田村潔司 | リングサイドで野次を聞いた ~独善的ボクシング論

リングサイドで野次を聞いた ~独善的ボクシング論

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全選手の入場です!!!
 
               
 
UWFというのは書き手のセンスが問われる題材です。
格闘技ファンからすると疑似格闘技に他ならないとなるし、プロレス・ファンからはあれはプロレスとは言えないと揶揄される。特に格闘技寄りのマスコミに書かせると単なる事実(=悪口)の羅列に終始する人も多い。一部で再評価されてる格闘技探検隊もその私怨丸出しで幼稚な文体からは本当に格闘技を観戦者の立場から良くしていこうという思いは感じられなかった。その思いは今も変わらない。
解答が出た今の時代にUWFを振り返ると、羊頭狗肉の部分はあったかも知れない。しかし、あの時代にUWFがあればこそ、格闘技は食べていくことが出来る様になったし、プロレスは十年以上、強さの幻想を維持出来たりもしたわけで、この事実は変わらない。
そして、前田も髙田も引退し、船木や鈴木ですら、総合格闘技とリンクしなくなった現代において、UWFは過去の遺物として忘却されようとしています。そこに独自の観点で光を当てたからこそ「1984年のUWF」はあの時代に青春を過ごしたものの熱意を呼び起こしたところは確かにあるだろう。
しかし・・・佐山視点というのは確かに新しい視点だが、彼がやりたかったのはUWFでなく、修斗だったはず。だから、スーパー・タイガーはアッサリとリングから消えたのだ。だから佐山はUWFの功績など求めていない。その後もリングに上がり続けてUWFを見せていたのは他ならぬ前田達。だから前田は今回、批判の矢面に立たされる。それがUWFの功罪ではないか。
敢えて言えば1986年の前田日明はその功罪を背負っていく覚悟が見えていたからこそ、魅力があった。あの年の前田をリアル体験したからこそ、何を言われ、書かれても自分の中の前田像はまったく持って揺るがない。
書籍による事実の羅列はあの時代の空気を再現してるとは言えない。だからこそ、「1984年のUWF」は自分には片手落ち感が強い。
 
~閑話休題~
 
時代は代わり、誰もUの魂を継ぐものがいなくなったかに思われたが、唯一、Uに拘った存在として田村潔司の存在は外せない。オープンフィンガーよりも掌底、ストップ・ドント・ムーブよりもロープ・エスケープ、ポジショニングでなく回転体、そして脚先にはレガーズ。心の中には小太刀。
新生UWFでデビューして団体解散、そして参加したUインターでは最初は自分の思想にブレは無かったはず。団体の序列はあるものの、練習を重ねて強く、魅せれる選手になることだけを考えてれば良かったのが1992年まで。普段と違う試合で強さを見せつけるために行ったマシュー・サー・モハメッドとの格闘技戦もあくまでも自分のための箔付けで行ったシュートでした。北尾の参戦も上の人達が対応していて他人事ではあったわけだし。
 
しかし、No.2という立場では団体運営の中で関わらなくてはいけない部分も出てきた。
ベイダーの参戦、一億円トーナメントの開催。練習で培ってきたことを披露出来ない試合が増えてきた。93年という年は国内ではパンクラスが旗揚げし、海外ではUFCが産声を上げていた。安生が道場破りに失敗し、団体のイメージが失墜する。93~94年にかけての田村は危機感があったはずだ。
そして1995年の田村潔司はUWFを背負いつつも実験をリング上で繰り返す。
①垣原との2連戦
②オブライトとの2連戦
③新日本との対抗戦出場拒否→K1でのパトスミとのアルティメット戦
 
         
 
 
田村が目指したのはパンクラスなのかと言われたが、それは違う。例えば垣原との1戦目(95年2月18日NK)はパンクラスのリングで行われても遜色無いものだったが、本人が志向したのは2戦目(95年7月28日博多)の方だ。
持ち味を潰さずに道場で培った技術の攻防を魅せるよりリアルに近づくUWF。純度100%のリアルでないが、それはリアルなものを凌駕するリアリティを指すのではないかと思う。
練習してるものは上に上がり、してないものは下に下がる。コンテストでありながら、お客さんを満足させて家路に付かせるものではなかったか。
しかし、それは上の選手がシュートそのものでないにしろ、安穏としていられないことを意味する。リングの行いで問いかけそのものがよりシュートに迫ってくるからだ。
失うものが無い若い選手は田村を支持したのも当然だろう。このときの傾倒が深い程に後の溝も埋まらなかったりする弊害も出たのだが、そうヤマケンのときみたいに。
しかし、外人は田村に懐疑的だった。それがオブライトとの2戦に当たる。
こんな試合やってられないと顔面殴ったり、膠着したり、試合後に椅子を投げた1戦目。
あっさりと技の途中でギブアップして呆気なさしか残さなかった2戦目。
オブライトは垣原と違い、田村にNOを付きつけた。そして全日本へ移籍する。
 
新日本プロレスとの対抗戦も素手によるVTも本意とするところではなかったはずだが、よりUWFに近いものとして後者を選択した田村のセンスは危うくも鋭い。そして、パトリック・スミスとの対戦で生き残ったことで更に田村は悩んでいくようになる。
時代はVTからMMA、素手の拳からオープン・フィンガー・グローブへ。
リングスもKOKもPRIDEやDREAMも本当にやりたいことでは無かったのかも知れない。
U-STYLEでさえも所詮は箱庭にしか過ぎなかった。やりたい舞台がないことで、20年以上経った今も田村は悩み続けている様に見える。
しかし、1995年の実験を切り抜けてきたからこそ、UWFを背負うことが許されるのかも知れない。