【師走まつりと百済王族】  

毎年旧暦の師走に宮崎県東臼杵郡美郷町南郷(旧南郷村神門)で開催される「師走祭り」は、1300年余りの前の百済王伝説に基づく祭りで、少なくとも江戸時代中期には行われていたことが、祭りの舞台である神門神社の屋根裏から発見された鉾の日付からわかっています。

また祭りの舞台である神門神社に百済王の宝物として伝えられた「唐花六花鏡」が、奈良正倉院収蔵物、奈良の大仏台座下出土物の銅鏡と同じ鋳型から鋳造された極めて貴重なものであるということも判明しており、これが大きな謎となっています。

神門神社の由来を記載した神門神社縁起は、祭りの舞台となる事件を天平勝宝8歳(西暦756年)としていますが、これは百済が滅亡して約100年後であり、更に日本に亡命していた百済王族の系図の中に、この祭りの主役の禎嘉王、福智王の名前はありません。

しかしこの伝説の舞台となった時代は、百済王敬福という百済王族が日本の朝廷の中で活躍した時代(百済滅亡後、日本に居た百済王の一族は、持統天皇から百済王氏(くだらこにきし)の氏姓を賜与されていた。)でした。

彼は、その軍事的能力を高く評価されていただけでなく陸奥守の職にあった天平21年(西暦749に、日本で最初の金を発見産出して献上し、その功績により七官位を飛び越し従三位に特進する異例の大出世(金の産出に功労のあった部下は十階以上の特進)をしています。

ときの聖武天皇は、完成していた奈良の大仏に貼るべき金が国内で見つからなかったため、中国に船を派遣し入手しようとしていたらしいのですが、そこに百済王敬福が金を献上したので、非常に喜び、東大寺大仏殿行幸し、仏前に詔を捧げるとともに、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行ったそうです。

こうして、聖武天皇の信頼を得た彼は、折から発生した橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂の乱の鎮圧も行い、更には新羅国内で発生した疫病・飢饉に伴う難民、帰化問題、更には新羅難民による海賊問題に対応するため天平勝宝4(752)に検習西海道兵使に就任しています。

その後新羅討伐問題が起こると天平宝字5年(761)に討伐軍編成のため南海道節度使の役職に就いています。

 つまりこの祭りの舞台となった時代天平勝宝8歳(西暦756年)は、百済王敬福が新羅問題つまり朝鮮問題を担当した時期に当たります。

 次に百済王氏と日向の国の関係についてですが、直接関係が認められるのは、百済王敬福の孫に当たる百済王俊哲だけです。

 

 この百済王俊哲も、優秀な軍人だったようですが、延暦6年(西暦787年)何らかの事件に連座し日向の国の権介に左遷(島流し同然)されています。

 3年後には、処分が解除され中央に復帰しているのですが、その3年間、百済王俊哲が日向の国に居たことは間違いないと思われます。

 この時の処分が解除された理由については、その武官としての才が惜しまれたためという説と、百済王族の出とされる高野新笠(桓武天皇の生母、百済王族の流れをくむ和氏の出身だったと言われている)が薨去後に皇太后とされ外戚となったことから同族への待遇の上昇のためであるとの説があるそうですが、どちらかというと後の説の方がありそうなことだと思います。

 

次に百済王氏の中で奈良正倉院収蔵物、奈良の大仏台座下出土物の銅鏡と同じ鋳型から鋳造された極めて貴重な唐花六花鏡を百済王族の中で入手できた者は誰かと言えば、単純に考えれば百済王敬福以外には居なかったと思われます。

 もっと別な言い方をすれば、百済王敬福なら聖武天皇から下賜された可能性があると思います。

 もしそうであれば、当然百済王敬福の直系の孫である百済王俊哲がそれを引き継いでいたと思われますが、彼なら神門神社にそれを奉納することが出来たと思われます。

 彼がそれを奉納することになった経緯については、想像の域を出ませんが、神門の住人が百済王敬福の保護した新羅からの難民だったのか、あるいは何らかの理由で神門の住民が左遷され窮地にあった百済王俊哲を救ったのか(この当時は権力闘争に敗れ左遷されるとそこで謀殺されることはよくあったようですので、これであれば神門神社縁起の追っ手との合戦と言う話に合うのですが・・・)、ここに至ると全て想像の域をでません。

 ただ、神門の住民の方のDNAを調べその系統が割り出せれば、意外な事実がわかるかもしれない等と勝手に考えています。