言葉の力 | 考え中

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基本的に感情論…本能論。見たもの感じたもの触れたものに関する感想。
素直に心に忠実に言葉を吐くだけ。
ストレス発散のページ。

少し前に、三遊亭円楽襲名披露公演へ行った。


落語や寄席…言葉は知っているものの、

それらへ足を運ぶための予備知識もなければ、

いろはさえ知らない自分が行っていいのだろうか…と

長い間悩んだ末の決断だった。


大げさかもしれないが、それだけ、私にとっては日本人と言えど

それらは決して身近なものではなかったのだ。


行くと決めたからにはいい席でなければ…なんて

なぜか大張りきりでチケットを確保した。


何と最前列から10番目の真ん中だった。


「笑点」ではお馴染みメンバーがこんな近くで見られる…

あんなに悩んだ末にやっと来た割にいざ幕が開くと、

単純にミーハーな気持ちが占めていた。


円楽さんの出番はまだまだ…最後の最後。


三遊亭小遊三さんの出番。

これがまたクセになる。

失礼かもしれないけれど、

どこか力の抜けた、寛容さや温かみのある雰囲気に

のまれながら発せられる言葉のテンポやリズムに、

頷き、味わい、お腹を抱えて笑った。


噺家…こう書かれている。

あまりに深く引き込まれるその話芸に、

勝手なイメージだけれど、その言葉がとても崇高なものに

思えた。「話家」としない理由がどこかにあるのか…とも

思った。


最近のTV番組、バラエティ番組に関しては

まったくと言っていいほど見ていない。

日本での番組で、日本人が見ているのがまずは大前提にも

関わらず字幕がやたらと飛び交う映像に吐き気さえしてしまうからだ。


留学生の友人はその環境に「日本語の勉強になるよ」と喜んではいたが…。


その一方で、

外国映画を映画館でやるにあたって、字幕を読んでいる余裕がない等

意見が多々あり、今後は映画館で上映の際、吹き替えを用意する…

というような流れもある。


普段あれだけTVで字幕の垂れ流しを受けておいて

字幕慣れしていないのか…

TVを消音にしても何を言っているのわかってしまうような過剰な演出は

一体誰のためなのか…


何だか意味がわからない。


噺家…。


彼らの声や、しぐさや、息遣いを全身で感じる。


言葉…というものの、本当の威力を味わった。

語りかけるような、その口調に、思わず身を委ねてしまう。



楽太郎改め円楽さんの出番。


前述したように、いろはなんて持ち合わせていない。

ただ、人情話だったというのは後で隣に座っていた

おば様達に教えてもらった。


涙がこぼれた。


私は親子関係に、そんなに執着はない。

親子の絆など、あってたまるか!!とも思っている。

父とは本当に水と油の関係で、こちらがどんなに愛情をもって

話をしようとも、気に障るようで、まるで話にならない。

最近では理解しようと頑張る、その努力さえ仇になる気がして

諦めている。


円楽さんの穏やかだが力のある語りが、

否定し続ける私の心を優しく解いてゆく。


人情話…

最初にの言葉を聞かなくて良かった。


何のイメージも、何の構えもなかったから

私の頑固なまでの父に対する否定が

肯定とまではいかなくても、

「見守る」ことだったり、「包む」ことだったり、

「受け入れる」ということも時には大切なのだと、

鮮やかな情景でもって導いてくれた。


語り口に呑まれてしまいたくない、これはこれで

私とは別の、一つの話のはずだ…と

意地を張れば張るほど、力強い語りは私の思いを

諭してゆく。


親に関わらず、人にはいろんな側面があり、

いろんな思いがあり、時には誰かを守るための嘘もつく…


人間の心の複雑さに気付いた。


また、誰か、自分と関わっている全ての人たちの

自分とは違った愛情表現というものが

どこかに存在するのだろう…ということを

少し信じてみようという気持ちになれた。


言霊。

ことばの中にこもっていると思われたふしぎな力。


時として軽はずみな言葉が、どれだけ悲惨な結果になるか。


噺家という立場にいなくとも

言葉や表現というものに、もう少し挑戦する気概を

もって生活したいと、あらためて思った。


大事な時に何も言えないのは

悔しすぎる。


簡単な言葉で、誰かを救えるほど

人間は単純ではないのだから