あれ以来彼女はなんとなく元気がなかった。もちろん猫の話はしないし、それ以上に笑う回数が少なくなった気がした。雨が続いていたのもあって、散歩に出ることもなかった。“みちる”の墓に線香を上げることは何回かあったけど、例のゴミ捨て場に行こうとはしなかった。
「あのアパートに行ってみよう。」
は思い切って切り出してみた。
「あの仔たちがいる?」彼女は少し戸惑いながら聞き返した。
「うん。」
「そうだね。他の仔たちのことも気になるしね。」
彼女の声は頼りなかったが、その中には彼女なりの決意みたいなものが感じられた。
 僕らは簡単に食事をすませたあとに、前の残りのキャットフードとミルクを持ってゴミ捨て場に向かった。ゴミ捨て場に付くまでの間、彼女はジュディアンドマリーの「散歩道」を鼻歌で唄っていた。はそれを黙って聞いていた。
 ゴミ捨て場に付くと「散歩道」は唐突に止まった。そこに子猫たちの姿はなかった。その光景は彼女に(もちろんにも)とても強い衝撃を与えた。まるで空がゆっくり落ちてきて、その間に存在している空気がだんだん密度を増し、の(あるいは僕らの)事を押しつぶしているような気分だった。
 彼女は本当に押しつぶされてしまったみたいにその場にしゃがみ込んだ。まるで“あの日”のデジャヴを見ているようだった。はここに連れてきたことを後悔した。そして言い訳するように手当たりしだいに周りを見渡した。
「きっと誰かに拾われたんだね。」彼女が声にもならないような声でそう言った。それは虫の羽音よりもずっと小さく弱い音に聞こえた。それを聞いてはとてもやるせない気持ちになってしまった。
「そうだね。もう今日は帰ろう。」
「うん。」彼女の声はさっきよりもっと小さく、それは音というには違和感を感じるくらいのあまりにも小さい、直線といっても誰も否定できない波長だった。
 部屋に向かって歩き出して間もなく、は歩みを停めた。が足を停めたのとまったく同時に彼女もまた足を停めた。そして彼女は顔を見合わせた。
「聞こえたよね?」今にもこぼれ落ちそうな涙をなんとか抑え込んで彼女が言った。
「聞こえた。」もそれに応えた。
僕らは一緒に振り返り、その音が聞こえたさきに駆け出した。不思議と僕らにはその明確な位置が分かった。
 そしてそこには弱りきった一匹の仔猫がいた



ランキングに参加していますハート
出来ればクリックお願いしますネコ
ダウン
にほんブログ村 猫ブログ 元野良猫へ
にほんブログ村
 は駅に向かった。昔の部屋があり、“あの”ゴミ捨て場がある中野に行ってみようと思ったのだ。もちろんたった一晩でこぴんが荒川区から中野区までたどりつけるとは思えない。でも行ってみればなにか手がかりのひとつくらい見つかるかもしれない。そう思ったのだ。
「こぴん待っていてね。すぐ行くから。」少しだけ早足で歩きながら誰に言うのでもなくそう言った。こういうのを勇み足というのかもしれない。
 今の部屋から前のアパートに行くには地下鉄を乗り継いでだいたい一時間くらいかかる。その間ずっとガラスの中のもう一人のが悪魔のようなささやき方で「もう死んでるかも」とか「お前が嫌いだったんだ」とか、とにかくネガティブなイメージばかりを押し付けてきた。はそれを振り払うのに必死になって、危うく一駅降りそびれるところだった。
 駅を出るとそこには三年前とまるで変わらない風景が広がっていた。ちょっとその辺を散歩でもしたら三年前のとすれ違うかもしれないと思うくらいだった。でも今のには変わらない風景を懐かしみながら散歩している暇なんてチョコレートのかけら一つ分もない。は馴染みだったトンカツ屋もビデオレンタル店も自分の部屋すらも通らずに、とにかく最短の道でゴミ捨て場へ向かった。
 少し息が切れてきたところでそこにたどり着いた。ゴミ捨て場はまだそこにあった。三年前と変わらない古いアパートの前にコンクリートで囲まれたゴミ捨て場。こぴんが生まれ、母に捨てられ、らが出会ったゴミ捨て場だ。でもそこには当然のようにこぴんの姿はなかった。そこにあるのは静寂だけだった。期待はしていないつもりだったのに口から長く白いため息がごく自然にこぼれ落ちた。はもう一度そこを見渡した。変わったところといえば、カラスや猫よけのための網が張られているところくらいだった。猫よけ。猫よけの中で生まれた猫。は網の中でじゃれ合うこぴんたちの姿を想像してみた。そして彼女の皮肉な人生の始まりを少しだけ呪った。そして僕は余計にこぴんのことが心配になった。
「ねぇ。」
その声は唐突に僕の背中のほうから聞こえてきた。


ブログ村ランキングに登録してますネコよろしければクリックお願いしますにゃー
ダウンダウンダウン
にほんブログ村 猫ブログ 元野良猫へ
にほんブログ村
 部屋には毛一本も残ってはいなかった。の服に付いた毛さえも見つからない。もしフローリングに爪の傷が付いていなかったら、誰もこの部屋に猫いたなんて信じてくれないだろう。それでも確かに昨日の夜までこぴんはこの部屋にいて、そして今日の朝にはいなくなった。
 は途方に暮れてしまった。だれかに相談しようか。そうも思ったが平日の朝に誰が助けてくれるだろうか。そもそも助けてくれる人なんていないような気もする。
 にはこぴんしかいないのだ。
 はとりあえず、コーヒーを入れてなんとか少しだけでも落ち着こうと思った。冷蔵庫から豆を出しフィルターを広げコーヒーメーカーに設置する。金属の計量スプーンの心地よい重さが現実なのだと再認識させて、余計悲しい気分にさせた。一杯分のコーヒーが落ち切ってしまうと、それをカップに移してその上にほんの少しだけ牛乳を入れる。普段なら起きて最初に行うはずの行動だ。
 薄茶色の液体をしばらく眺めたあと、ゆっくりと一口目を飲んだ。それはとてつもない孤独な味がした。
 コーヒーを飲み終わるのとほぼ同時に、は一つの決断をした。
 そして体中に残っていたあらゆる力を振り絞って立ち上がった。心はタンクローリーのように重たかったが、なんとかバランスを崩さずに立ち上がることが出来た。
 クローゼットを開けて、一番奥に仕舞い込んであったポールスミスのミニクーパーが描かれたボストンバックを取り出した。そしてその中に上下の下着を四枚ずつと靴下を5足、フリースとアディダスのジャージーを詰め込んでファスナーを閉めた。
 そのあと布団を整えて、電気がすべて消えているのを確認して部屋を出た。出る直前にこぴんの旅行用のかごを持っていこうか、少しだけ悩んだが結局やめることにした。
 外に出ると出発を拒否するかのように真冬の冷たい風が圧倒的な力での頬を襲った
団を整えて、電気がすべて消えているのを確認して部屋を出た。出る直前にこぴんの旅行用のかごを持っていこうか、少しだけ悩んだが結局やめることにした。
 外に出ると出発を拒否するかのように真冬の冷たい風が圧倒的な力での頬を襲った。



ランキング用バナーです星よろしければクリックお願いしますネコ
ダウンダウンダウン
にほんブログ村 子育てブログ 親バカへ
にほんブログ村
 はとりあえず会社に電話して、遅れるとただそれだけを伝えた。
「飼い猫がいなくなったので遅れます。」
なんて言ったところで
「そうですか。それは心配ですね。少しでも早く見つかるよう会社から10人社員をそっちに向かわせます。」
なんて言葉があるわけないのだ。誰もそんなこと期待はしていないし、「ただ遅れる」それだけ伝われば十分なのだ。あるいは会社にとってはそれすら必要のない情報なのかもしれない。
 電話を切ってしまうと寝巻の上にピーコートだけという格好で外に飛び出た。もちろん衝動的に飛び出したわけで、拾ってから一度も外に出したことがないこぴんに当てなどないし、こぴんにだって当てがあるとは思えない。あるとしたら彼女が生まれたアパートのゴミ捨て場くらいだが、今は引っ越してしまってそこに帰巣本能がない猫が“帰る”のはほとんど不可能だ。昔何かの本で何十キロも離れた山に猫を捨てたら1週間後に戻ってきたという話を読んだことがあるが、それもそうそうある話ではない。
 ドアを飛び出したところである意味当然というべく、は途方に暮れた。まず表に出たところで道は左右に別れその10メートル先ではされに左右直、されに10メートル先で左右、さらに・・・葉っぱの葉脈のように無限に広がっている。それにこぴんは葉脈の上にいてくれるとは限らない。そもそも彼らにはきっと道という概念がない。髭の感覚だけで「進め」か「進めない」を判断するだけで道はむしろ外敵から見通しがいい危険な“場所”くらいにしか認識していないかもしれない。
 は大きなため息を一つして、上がりっぱなしの脈拍を無理やり押さえつけて一度部屋に戻ることにした。主を失くした部屋はヤドカリに捨てられた貝殻みたいに空しさ以外何も帯びてはいなかった。




ランキングに参加してます星
よかったと思えたらクリックお願いしますお月様
ダウンダウンダウンダウン
にほんブログ村 猫ブログ 元野良猫へ
にほんブログ村
 正月が過ぎてもこぴんはうまくやっていたはずだった。もともとお互いそんなに話すほうではなかったが、こぴんが話すことといえばに(あるいは人間に)対する嫌みか、猫のうんちくだけだったし、からなにか話しかけてもこぴんはどこか上の空だった。だかららはほぼ今までと同じような生活を送っていた。変わったことといえば、こぴんの食に対する欲求くらいだった。言葉が通じるようになってからこぴんは毎日違うものを要求するようになっていた。ある日はカニカマを、ある日は、鳥のささみを、またある日なんて玉子豆腐をせがんできた。今まで玉子豆腐なんて与えたことはなかったのに、どうして知っているのか不思議に思いながらも、それくらいならいいかと買ってきていつものキャットフードの横に添えてやると
「わたくしタマゴドウフのこのハごたえがダイスきですのよ。ミッカにイチドこれでもカマいませんわ。ふふ。」
 なんてことを言いながら本当に美味しそうにそれをほおばっていた。猫と玉子豆腐。何度考えてもピンとこなかったが、味の好みなんてのは人間でもばらばらだからと、とりあえずは気にしないでおいた。

 でもその時はとても静かにそれですごい速度で、のすぐそばまで迫っていた。事件というのは得てしていつも唐突と相場が決まっているのだ。
 その日もいつものように朝6時半に目覚まし時計がなって、いつものように手探りでそれのボタンを探し当てアラームのスイッチをオフにした。そしていつものように上半身からゆっくり起き上がり、ベッドから足を下ろした。
 それまでは何の変哲もない、平和で退屈ないつもの平日の朝だった。でもすぐにはある異変に気が付いた。《こぴんが挨拶をしない。》こぴんはしゃべれるようになる前から(むしろしゃべるようになってからは少なくなったが)僕が起きるのとほぼ同時に一度鳴く習慣があった。そして案の定部屋にその姿はなかった。トイレにでも行ってるのかと思いドアを開けたがやはりいない。玄関のドアは閉まっているし、唯一の窓も虫一匹入る隙間も開いていたなかった。だいいちこぴんの体ではドアはおろか鍵にすら手(前足)は届かないはずだ。それでもどこを探してもこぴんは見つからなかった。
 僕の中を急に崖の前で目隠しを外されたみたいな暴力的な不安が襲った。
 
 こぴんは失踪してしまったのだ。



ブログ村ランキングに登録してます。よかったらクリックお願いします星
ダウンダウンダウンダウン
にほんブログ村 猫ブログへ
にほんブログ村