はやくイきますわよ。」
その声は自動改札機のさらに向こう側から僕の鼓膜を震えさせた。
「ナニをのんびりなさってるの。デンシャがキてしまいますわよ。」
あわてて自動改札を通り、その声の方向へ駆けていくとそこには案の定こぴんの姿があった。
「ねぇ。」僕は少しむっとして続けた。
「君は猫だ。猫は一人で勝手に自動改札を潜ったり、電車に乗り込まないものだよ。急にいなくなったらびっくりするじゃないか。」
「あら。それはあなたのカッテなヘンケンですわ。ネコだってジドウカイサツをクグりますしデンシャにだってノりますわよ。バカにしないでいただける。」

こぴんの声は僕の声よりさらにむっとしているように感じられた。
「あなただってイチドやニドくらいはごらんになったことあるでしょう。」
「僕は一度だって猫が一人で電車に乗ってる姿なんてみたことないよ。」

ついこの前テレビで猫の車掌が人気で田舎の路線の町おこしになっているというニュースを見たような気がしたが、それだって人間が意図的に仕組んだことで、実際に猫の意志で車掌をやっているわけでもなく、どちらかといえば乗らされているといったほうが正しいはずだ。
「それならあなたのメはフシアナですわ。だってワタクシここにクるときだってデンシャにノってきましたのよ。」
僕は言葉を失った。ずっと確かにそれは疑問に思っていたことだった。それでもにわかには信じることが出来なかった。今までに誰かから「今日の電車猫と一緒だったよ。」とか「満員のときは猫は小さくていいよね。」とかそんな話は聞いたことなかったし、もしそれが本当なら僕の目は間違いなく節穴だ。
「そうなんだ。」
僕は無理やり話を合わせてそう言った。
「じゃあ心配は無用だね。急いで乗ろうか。」
「だからさっきイってるじゃありませんか。」

僕の内心はもちろん半信半疑だった。
 ところがいざ電車に乗り込んでみると誰一人猫が乗っていることを不思議に思っている人はいないようだった。それどころか、猫がいるのを気付いていないようにも見えた。
 どうやら僕の目は紛れもなく節穴のようだった。



「それじゃあノキというのがミチルのもともとの名前なんだね。」
「ハナシをキくカギりではそういうコトになりますわね。」

「でもこれからもミチルと呼んでいいかい?どうもノキというのがしっくりこなくてね。」
「ワタクシのことではないのでイッコウにカマいませんわ。それにノキもきっとキにしませんわ。」

「よかった。ありがとう、助かるよ。」
 僕らはそんなようなことを話しながら駅まで歩いていた。こぴんはミチルの話を聞いてからどことなく寂しげな表情をしていた。心なしか口数も少なく感じた。やっぱり僕は自分本位の人間なのかもしれない。兄弟を亡くせばだれだった悲しいに決まっている。それをあんなにあっさり聞かされたらな落ち込むのも当然だ。
「ごめんね。もっと言い方があったかもしれない。僕は無神経だったよ。」
僕は素直に謝罪した。
「ナニがです?」
「何がってミチルの事だよ。こぴんは知らなかったんでしょう。」
「あぁ。シりませんでしたわ。まったく。」
「だから謝ってるんだよ。あまりにも唐突に簡単に言いすぎたことを。」
「それでしたら、むしろカンシャしているグライですわ。ネコはフツウミトられることなんてありませんから。ましておハカまでツクってクダさってるなんて。」

こぴんはそうは言ったが、やはりその表情は変わらなかった。もしかしたら僕の思い違いかもしれないが僕はそれ以上何か言うのをやめておいた。
 駅に付いて財布から小銭を出しながらこぴんに向かって皮肉の一つでも言ってやろうと「君はいいね。切符買わなくていいから。」と何気なく口にしようとして愕然とした。
こぴんは“猫”なのだ。
あまりにも当たり前に会話をしていたので、僕の中でこぴんが猫だという認識が薄れてしまっていた。猫が地下鉄に乗るなんて聞いたことがない。もちろんゲージに入れられているのはよく見かけるが、あれはどちからというと“運ばれている”といったほうが正確な気がする。猫が自分から列車に乗り込むなんて前代未聞の出来事だ。僕は行きがけにゲージを持たなかったことを思い出し少し後悔した。
「ねぇ、こぴん。どうしようか。」
僕がそう言った時にはすでにこぴんの姿は僕の足元からなくなっていた。
 こぴんと出会えたことで僕はひとまず落ち着きを取り戻していた。そこで僕はあることを思いついて駅のほうにきびすを返し歩き始めた。
「ミチルのところに墓参りに行こう。」
「ミチル?」

こぴんは何の事だか理解していないようだった。“ミチル”は彼女がミチルの死後付けた名前なのだからこぴんはその名前すら知らないのは考えてみれば当たり前の話だ。実際のところ僕でさえミチルが雄だったのか雌だったのかすら覚えていない。その点彼女が付けた名前はある意味かなり的を得ていたのかもしれない。
「こぴん。君の兄弟(姉妹かもしれないが)だよ。」
こぴんが少しだけ表情を変え、僕の左側に小走りで並んで来た。
「キョウダイ?どのキョウダイですの?」
「それは僕にも分からないよ。それは君のほうが詳しいんじゃないのかい?」
「とりあえずワタクシのシるカギりでは、ワタクシのミウチにミチルなんてナマエのネコはいませんわよ。」

こぴんの脚が忙しそうだったので僕は少し歩を緩めた。
「ワタクシのキョウダイはワタクシをフクめてゴヒキです。」
こぴんは珍しくうれしそうに続けた。
「ワタクシはシタからニバンメでウエから、ラサ、ユセ、ノキ、こぴん、エクですわ。ちなみはチチとハハはノトとキイですのよ。」
「ちょっと待って。こぴんは本当は別の名前があったの?」
「もちろんですわ。ワタクシあなたとデアうまでナマエがなかったとでもオモッてらしたんですか。ふふふ。」

そう言われてみれば、その通りだ。僕はこぴんについてあまり深く考えてこなかった。あるいはこぴんにおいて自分本位な考え方しかしていなかったのかもしれない。
「じゃあこぴんの本当の名前はなんていうんだい。」
「そんなのとっくにワスれてしまいましたわ。ワタクシカコにはキョウミがないですから。」
「そうなんだ・・・。」

肉食動物の目が人間より前に集まっているのは、もしかしたら獲物を捕らえやすくするためではなく、ポジティブだからかもしれないと僕は思った。
「じゃあこぴんこれからもこぴんでいいんだね。」
僕は確認した。
「アタラしいナマエをカンガえていただけないのならね。ふふ。」
こぴんの調子は相変わらずだったが、それでもそれは僕を安心させることにもなった。
でもそれ小さな安心は次の瞬間いともあっさりと打ち砕かれた。僕らにはとてつもない難題が待ち構えていた

僕は確認した。
「アタラしいナマエをカンガえていただけないのならね。ふふ。」
こぴんの調子は相変わらずだったが、それでもそれは僕を少しだけ安心させることにもなった。
 しかしその小さな安心は次の瞬間いともあっさりと打ち砕かれた。僕らにはとてつもない難題が待ち構えていた。
 そこにあったの紛れもなくこぴんの姿だった。こぴんは赤い車のボンネットの上に座ってのほうを眠たそうに見つめていた。それは昼下がりにおやつか何かが出てくるのを待つクレオパトラを思わせた。
「ねぇ。こんなところで何をされているの?」
はあまりの驚きに言葉がすぐには出てこなかった。
「そちらにはナニもございませんわよ。それともわたくしにミえないナニかがあなたにはミえるのかしら。ふふふ。」
「何って、ここは君が生まれたところじゃないか。君が急にいなくなったから僕は探しにきたんだよ。」
がやっとのことでひねり出した言葉に対してこぴんは容赦ない口撃を返してきた。
「あら。そうでしたの?ベツにおサガしにならなくてもユウショクまでにはカエりましたのよ。」
「猫が一人で出かけるなんて聞いたことないよ。だいたいドアはどうやって開けたの?」
「ネコは“ヒトリ”じゃなく“イッピキ”ですわよ。それにわたくしネコですからそれくらいはデキますわ。」

相変わらず僕らの会話は噛み合いそうになかった。
「まぁいいよ。じゃあ家に帰ろう。」
「ナニをオッシャってますの?あなたはタビにデたんじゃないのですか?カエるウチなんてありませんわよ。」

当然のことながらは呆気に取られた。ここのところずっとこんな調子だなと思ったら、ごく自然に深いため息がこぼれた。
「一応聞くけど、僕が旅に出ようと思ったのはこぴん、君を探すためだよ。それになぜ僕が旅立つ決心をしたことを君が知っているの?」
「だから」

こぴんはいとも話すのが面倒くさそうに続けた。
「わたくしネコですからそれくらいはトウゼンのことですわ。それにあなたがタビにデたのはわたくしをサガすのがモクテキではないはずですわよ。」
「え?」
「あなたにカけているものをサガすためのタビでしょう?」

のため息は深さを増していく一方だった。
 それは出来そこないの粘土細工みないに見えた。全身が茶色に染まって、先週の雨のせいか身体は湿っていた。目には目ヤニがあふれてそれが固まって目がほとんど開けられない状況だった。耳の中にはダニがいるのか真黒の固まりで埋め尽くされていた。
 彼女はそれらのことが見えていないかのように、全く躊躇することなくさっと両手を伸ばして、優しくその粘土細工を抱きあげた。それは一瞬身体を動かして、弱弱しい鳴き声を上げたがそれが、精一杯の抵抗であるのかのようにあとは流れに身を任せて彼女の腕の中にその小さな体を埋めた。
 車の下から出てきたその子猫は冬眠からさめたばかりの熊のように、あるいは今初めて光の下に出たかのように潰れてほとんど開かない目をさらにしかめた。彼女は長い長いため息をして「よかった。」と一言だけ口にして、二筋の大粒の涙を流した。も黙ってそれに応えた。
 僕らは長い時間そこにとどまり子猫を見守った。それは1時間なのか5時間なのかあるいは半日かもしれないとても長い時間だった。その間僕らは一言もしゃべらなかった。それでもそにはたくさんの会話と愛が存在していた。
 日が落ちかけたころ、彼女は唐突に、ゆっくり立ち上がった。その顔には涙はすでになく、何か強い意志みたいなものが感じられた。は何か言おう思ったけど適当な言葉が見つからず仕方なく黙っていた。先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「帰ろうか。」
言葉はそれだけだったが、その中にはたくさんの意味が読み取れた。
「そうだね。日も暮れそうだし。」
僕はしばらく応えに悩んだが、それに同意して立ち上がった。
「ねぇ。」
彼女は少しためらいながら、その大きな瞳を真っ赤にしてそれでもの目をしっかり見つめて話し始めた。
「この仔を連れて帰っちゃだめだよね?私はこの仔を見殺しにしたくないの。私たちがこの仔を見つけたのには絶対に意味があると思う。もし私たちがこの仔を見捨てたら私もう・・・。」
「一緒に帰ろう。」

「え?」
「三人で一緒に帰ろう。僕もちょうどそう思っていたんだ。一緒に帰ろう。」
「本当に?本当にいいの??」
「もちろんだよ。君が嫌だといっても僕は連れて帰るよ。」

そう言い終わる前に彼女は泣きながらに飛びついてきた。はそれにそっと手を添えて応えた。
「帰ろう。お風呂に入れてあげなきゃ。」
「うん。うん。うん。」

彼女は何かを確かめるように何度もうなずいて、そしての胸からゆっくり離れた。はまだ足元でうずくまったまま動かない“こぴん”をやさしく抱き上げ、足を踏み出した。

 僕らは帰り道、三匹の兄弟たちもまた同じような運命であってくれることを心から祈った。