真田丸と西保下・巨峰狩りフットパス | 山梨市日和♪~みんなでやるじゃん~

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安田義定の足跡と巨峰狩りの西保下フットパスを開催いたしました。
スタートから土砂降りの中でのフットパスでしたが、最盛期の美味しい巨峰狩りを楽しみ、途中イレギュラーなサプライズで、真田丸ツアーになり、なんと武藤家の家系図や昌幸の当時の室のお墓もお目見えするという、なんともびっくりな1日となりました。

以前にも真田丸が始まるということで、提唱してきましたが、もともと真田信繁(幸村)の父親の真田昌幸は永禄年間(1557)に武藤家(安田義定の四天王〜武田の足軽大将)の養子となり武藤喜兵衛と名乗って武藤氏の名跡を継いでいました。

その後、永禄7年に山手殿と結婚し、永禄10年(1567)から13年(1570)の間に幸村(信繁)が産まれたと考えられています。
天正3年(1575)年に長篠の合戦で兄の信綱と昌輝が討ち死にしたことをきっかけに、真田氏の家督を継いで真田昌幸と名を戻し、真田郷や上田に戻ったと考えられます。

そこで武藤氏の本貫地が山梨市ではないかと調べたところ、古い文書に甲西町に武藤氏の所領の一部があったと書いてありました。
昌幸が養子に入った時に所領に住んでいたとするならば、真田信繁(幸村)はもしかしたら山梨県産まれかもしれないということです。
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そんな仮設だった案件ですが、こうして牧ノ庄の要の山城である小田野城下にある、現在の武藤家には、確かに六文銭の天正9年没と刻まれた墓石があるのも事実であり、今後、しっかりとした調査をしていきたいと考えます。
当地の倉科衆や市内徳和地区に代表される百足衆は武田信玄の時代に精鋭というべき働きをした集団でもあります。

山梨市と真田氏とのつながり‼︎
今後もしっかりと追跡していきたいと思います。