謝恩碑 | 山梨市日和♪~みんなでやるじゃん~

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山梨市日和♪























今日はフットパスリンク協議会でした!!

生まれ育った故郷や大好きな街の歴史を

ガイドブック片手に

ありのままの小道を歩きながら学び

見つめなおすツールでもあります!!

開催まで残り51日!!

本番へ向け最終調整になりました!!



その後ひとり舞鶴城公園フットパスへ!!

甲府のまちは明日のえびす講!!

24.25の関東B-1で染っておりますが。。。



国文祭の建築的シンボルである甲府城鉄門!!

北口の甲州夢小路の建築を横目に立つ

謝恩碑の存在に気付きました♪



以下は、案内板の説明文を引用

謝恩碑は、明治四十四年三月十一日、

山梨県内にあった皇室の山林を明治天皇から本県にいただ

いたことを記念して建てられたものです

碑の建設は、明治神宮造営局参与工学博士伊東忠太氏およ

び同局技師大江新太郎氏の設計により、

大正六年十二月から同九年十二月まで三か年、

当時の金額で九万九千五百二十八円を費やして行われまし

た。

なお、碑の材料として使われている花崗岩は、

東山梨郡神金村(現塩山市)の旧皇室の山林から切り出し

たものです。







碑の高さ約十八.二メートルで、

碑身はオベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を、

また、碑台はバイロンと呼ばれるこれも古代エジプトの神

殿の入口に設けられた搭状の門を形どっているものです。



大きさは

総高…約三十.三メートル



碑身…下部約二.一メートル、



上部約一.八メートルと一辺の長さが上部ほど細くなるよ

うに十個の碑石を積み(約十五.八メートル)、

その上に高さ約二.四メートルの方維体(ピラミッド型)

をのせる。



碑台…一辺約九.四メートル、高さ約七.四メートル



台座…一辺約十六.一メートル、高さ約一.一メートルの

本台座とその下部に副台座を設ける。



敷地…東西約二十四.五メートル、南北約三十三.六メー

トルで面積は約八百二十三平方メートル。







これから後の文は謝恩碑西面に書かれている碑文を現代的

に表現したものです。

明治四十四年三月十一日、明治天皇陛下は度重なる水害に

悩んでいた山梨県の復興のために、

陛下の管轄にあった御料地を県の財産として与えてくださ

り、

以後、山林をよく手入れして国土を守るようにとおおせに

なった。

陛下のこの厚くありがたい御心に県民はこぞって感激し、

県議会ではさっそくこれを恩賜県有財産と名づけて陛下の

御心に添うように努め、

県もまた新しく恩賜県有財産管理課を設置して積極的に区

画の管理に当たるようにした。

さらに翌年には、管理に必要な規則を公布して、

境界を調査し面積を明らかにした。

次いで植林や伐採に関する大綱を定め、森林が県内の至る

ところに競うように繁ることを期待した。

こうした県の施策に基づいてどの郡や村でも同じように森

林を愛護しなければならないということを知り、

また度重なった水害の悲惨さを思い起こしては、

おそれないものはなかった。

そういうわけで陛下の御心をありがたく思い、感激するこ

としきりであった。

考えてみると、本県の地形はまわりには重なり連なった高

い山々がけわしくそびえ、地質の弱いところが多い。

それ故、激しい雨がいく日も降ると、がけがすぐにくずれ

落ち、

土砂が平地に流れ込んで、長年にわたって大きな被害を受

けた。

特に甲府の付近一帯は高い山に囲まれて多くの川が集まっ

ている地形であるから、その被害は甚だしかった。

これより先の明治四十年八月の水害のときには、

濁流が山や丘を切りくずし、

見渡すかぎりの村々は勢い盛んな泥水にのまれ、

人や家畜がたくさんおぼれ死に、田畑は河原となってしま

った。

このことは、陛下のお耳に達し、

陛下は特別のおぼしめしをもって近くにおつかえする者を

本県に派遣して実状を調査するとともに、慰問に御心を配

られた。

続いて四十三年八月にもまた水害があり、

このときは前よりやや小規模ではあったが、

四十年の水害のときの被害もまだ復旧していなかったため



地力はやせ衰えていて、人々は一段と心配の色を濃くした

のであった。

このように、しばしば災害を受ける原因といえば、

本県の地形はその面積の八割を山林が占めているにもかか

わらず、

無計画に木を切っていたため、

良材が残らないばかりか、

枯れ野を焼く火が低い山や谷にまで及んで緑はますます薄

くなるばかりであり、とうとう長雨が山をくずしたり、

濁流が堤防を切り崩したりして災害を起こすようになって

しまったのである。







今、われわれ県民は無計画に木を切り災害をこうむった当

時のことを思い出すとき、

陛下がそのことを戒め県土を守ることを諭されたありがた

い御心に報いようと発奮し、謝恩のための記念の事業をし

ないでいられようか。

ここに県議会の議決を受けて舞鶴城址に良い場所を選び、

ここに謝恩の碑を建てるため碑石を東山梨郡神金村(現塩

山市)から見つけることに成功した。

この地はもともと御料地の一画であった

こうして予定の地に碑を建て、陛下の御心に感謝する碑

文を記して県民の心に永遠に伝えようとするものである。

私、春樹(山梨県知事・山脇春樹)は、かたじけなくも本

県知事に着任し、これを実現し得たことは誠に感激にたえ

ないものである。







したがって、事の大略を右のように記して最後に次のよう

な銘文を掲げる次第である。







山梨県は高い山々や高原を持つ地形でありながら、その連

峰は緑が少なく、木こりや草刈りの人々が山林を荒らして

いる。







一度は長雨が降ると山からの濁流が四方に押し出し、家々

は土砂流に流され、田畑は水の深い所と化してしまう。

この時に明治天皇陛下のありがたい御心により、本県内に

ある御料地をわが県に与えられた。すべての県民は感激し

て陛下の御心に報いるために、将来、美しい森林が繁るよ

うにと心から願う。







陛下の御心は甚だ深く、県民は永久に感激し、堅固で美し

い石を碑とし、ここに県民すべての心を刻みつける。







大正八年三月



山梨県知事従四位勲三等・山脇春樹・撰文



この文章といわれを感じ取った時。。。

今の恩賜林は、あまりにも荒れ果てているのではないか?

または、あの時の理念や志は一体どこに行ったのか?

とも思ったりします。



疑うからこそ知り、

知るからこそ疑う!!



皆さんも是非!!えびす講!!関東B-1ついでに謝恩碑

ご覧になってくださいね♪



また、明日は謝恩碑を切り出した神金でフェスタが模様さ

れます!!

こちらも是非!!足を運んでみてくださいね♪