Paulina Porizkova(1) | Woke Up In the Beautiful World

Woke Up In the Beautiful World

女優・モデル・音楽…美しいものは世界を救う!!
主に海外モデルを中心に紹介します。

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Paulina Porizkova
ポーリーナ・ポリスコワ
1965年4月9日生まれ チェコスロバキア出身
180cm

リンダやシンディ・クロフォードらいわゆるスーパーモデル時代のモデルの一人であり、彼女達より少し前にトップモデルに登り詰めた完璧フェイスのポーリーナ・ポリスコワをご紹介。ナタリア・ヴォディアノヴァはシンデレラモデルとして有名ですが、ポーリーナの人生もかなりシンデレラストーリーだし、元祖だと思います。



1965年、10代の母親とトラック運転手の父親の下、冷戦下のチェコスロバキアで生まれた。民主主義運動の激しくなったチェコスロバキアを鎮圧しようとソ連が侵攻した1968年、両親はわずか3歳だったポーリーナを祖母の下に預けてバイクでスウェーデンへ亡命。後にポーリーナをスウェーデンへ迎えようと計画していた両親だったが、この計画は失敗するのだった。
小さな娘までスウェーデンに亡命させるのをチェコスロバキア政府は許さなかった。ポーリーナを養子に出すと政府から脅迫された母親は、娘を助け出そうと変装して母国へ潜り込んだものの、その道の途中で拘束されてしまったのである。そして母親はその後6年間も刑務所や自宅軟禁などによる政府の監視下に置かれた。その頃スウェーデン国内ではこの親子の状況がメディアに取り上げられ、新聞にはテディベアを抱いた幼いポーリーナの写真が掲載されたという。
国際的な批判と圧力に屈したチェコ政府は母親を解放。家族が離ればなれになって7年後、母娘は政府に国外退去を命じられ、親子は再会を果たした。鉄のカーテン(*冷戦下でソ連と西側諸国を隔てていた境界線)越しに再会したその時の記憶は今でも彼女の脳裏に焼きついているという。『ママの手を握って、ずっと手を振っていたことを覚えているわ。真っ直ぐな道で、私達の両脇は地雷原だった。オーストリアの国境で父が私達を待っていたの。』というポーリーナだが、『長いこと父に会っていなかったから、それが父だとはわからなかった。』


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when she was a child,beautiful child.

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Past and Now


再会を果たした家族だったが、両親はほどなくして離婚し、父娘は以来疎遠になった。

『3歳で両親と離ればなれになって、その状況を理解できる年齢じゃなかったの。みんなの両親たちもスウェーデンに行ってるものだと思ってたわ。ママはチェコスロバキア政府から私を取り戻そうとしたんだけどうまくいかなくて、それで私達親子の話がメディアの注目を集めたの。幸いに両親と再会できたのだけど、その様々な出来事は二人の結婚生活に犠牲を強いることにもなって。その後すぐに離婚してしまったわ。』
メディアから冷戦での犠牲者というイメージで取り上げられていたポーリーナは学校でいじめられていた。『政治難民として知られていたから、辛かった。寂しかったし、みんなからは醜いって言われたの。母も精神的に参ってしまうほどだったわ』。加えて父親を失った家族は貧しい生活を余儀なくされ、母親が自宅軟禁中に産んだ幼い弟とポーリーナは誰に面倒をみてもらうことなく、自分達の世話は自分達でした。それは空腹のためにパンを盗むことさえあったほどだった。

しかしそんな極貧の生活を送っていた彼女にも幸運はあった。それは背が高く、美しかったことだ。
1980年、15歳だったポーリーナはフォトグラファーを目指していた友人と共に写真を撮った。エスティローダーの広告の真似事をして撮っていた。『フォトグラファー志望の友達がよく私をモデルに使って写真を撮っていたの。ある日勇気を出して彼女が撮った私の写真をタレントスカウトに送ったの。私に何も言わずにね。そしたらスカウトが私に声を掛けてきたの。』と本人が言うように、その友人はその写真をモデル事務所へ送り、ポーリーナに目をつけた<Elite>と契約した。『4週間後にはパリにいたわ』と、1ヶ月も経たずして<Elite>パリ支部のモデルとなり、その2週間後には初めての雑誌の表紙撮影を経験した。『モデルを始めた最初は誰もが表紙撮影をするものだと思っていたの。それがどんなに凄いことかわかってなかったのよ』と言う通り、モデルを始めて2ヶ月と経たない新人モデルが雑誌の表紙を飾るとは空前絶後であった。


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当時、ポーリーナが飼っていた猫と

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貝殻ビキニ…。

『15歳で働き始めて、すぐに売れることができた。でもアクシデントもあったわね。クライアントから仕事のためにバルバドスへ送られたんだけど、彼らはパリまでの帰りのチケット代を出してくれなかったから、私はNYでずっと足止めを食らってしまったの』と、些細な事件はあったもののキャリアはジェットコースターのようだった。『<Elite>が沢山のフォトグラファーのもとへ私を送り込んでくれたの。それでフランス版Vogueやコスモポリタンの表紙を手に入れたわ』

多くのトップモデルたちと違い、売れるまでの苦労は全くしなかったと言えるポーリーナだが、モデルという職業は退屈で好きではなかったと言う。体で売れようが顔で売れようがどうでもよかった、貧しい幼少期を送っていた彼女は仕事を沢山するなかで沢山お金を稼げればよかったそうだ。そして当時のモデル業界らしく、『男の人が部屋をノックしてコカインを差し出してきた』、そんな経験もした。

モデルとしてのキャリアでは、1984年、19歳でスポーツ・イラストレイテッド誌の表紙を飾り、同誌の表紙に登場した史上最も若いモデルとなった。この頃のモデル界はブロンドブルーアイというお決まりビューティーのモデルから、多様な国籍のモデルを起用する流れにあったことも彼女が売れた一因になっている。その証拠に、翌年85年にはアーヴィング・ペンとの仕事を得、コスモポリタン誌創刊20周年の表紙を飾るほどになっていた。1986年には自身のカレンダーを発売し、25万部という爆発的な売り上げを記録させた。また、イラストレイテッド誌を始めPlayboyやカレンダーで見せる水着姿から、セックスシンボル的なポジションも確立したのであった。
またこの年には3月、9月、12月と1年で3度Vogueの表紙を飾ったのである。
この頃ポーリーナとよく仕事をしたエル・マクファーソンはポーリーナの美貌に嫉妬したと言う。『ポーリーナ・ポリスコワと一緒に仕事をしてたとき、私達はNYで一緒に住んでてルームメート同士だったの。彼女は信じられないくらいゴージャスだったわ。しかも既に表紙を飾ってるようなモデルだったし。私はいつも自分は彼女の醜い妹みたいだって感じてたのよ』