Jean Shrimpton
ジーン・シュリンプトン
1942年11月7日生まれ イギリス出身
177cm
今回は60年代で最も成功したモデルの一人であるジーン・シュリンプトンをご紹介します。モデル好き、ファッション好き、ファッションフォト好き、60年代好きならお見知りおき願いたいマストモデル、ジーン・シュリンプトンです。かくゆう私も、色々なフォトグラファーや著名エディター達のインタビューを読んでいるうちに知ったのですが、ことごとく歴史的なアイコンモデルとしてシュリンプトンの名前を彼らが挙げてくので必然的に惹かれてしまいました。ここ最近ひとりモデル回帰ブームに見舞われてまして、昨年末の90's特集といい新年1発目のシュリンプトンといい、このままいくと今年上半期は20世紀モデルズばかりになってしまいそうです。皆さんも是非わたくしめと共にモデルの歴史を一緒に勉強していこうじゃありませんか(土下座)。というか、最近のモデル業界に追いつけないわ、わからないわで、昔のモデルに逃げてるだけなんですけどね。ま、興味ない方はすいません。
ってことで!新年第一回はシュリンプ!
養豚場を経営する両親の下、バッキンガムシャーで生まれたジーン・シュリンプトン。『戦争の時代で、ひどく不安な空気で、子どもですらそんな雰囲気に気付くほどだった。戦車がすぐ横を通り過ぎるようなところで、私達家族は爆撃軍の近くに住んでいたからバスはいつも軍人で溢れていたわ。』と、戦時下のイギリスで彼女は育った。
モデルへのきっかけは今も昔も変わらないスカウトという形。しかし稀代の美しさを持っていた彼女は人生で2回のスカウトを受けることに。1958年、修道院附属学校を出たシュリンプトンが16歳だったある晴れた午後のこと。ウインザー・グレート公園で、ある男性から『お嬢さん、モデルになるべきですよ。』と声を掛けられた彼女。そのままその男(とガールフレンド)に王室特別区域に入れてもらい、その目で女王陛下を見たという。写真を撮らせてほしいと頼まれたために、まず両親の許しを得なくてはならないとして、男と両親を合わせたジーン。数日後、男の別荘に呼ばれたシュリンプトンだったが、そこで体を迫られたために(当然その申し出は断った)、彼女は二度とその男と会わないことを誓った。
一年後、17歳になり秘書養成学校へ通っていたシュリンプトンは、ランチをとっていたところで映画監督のサイ・エンフィールドに声を掛けられ、モデルになるようにとモデルスクールを紹介された。苦い経験をしていたはずが、秘書よりもモデルの道を選んだのだった。かくして1ヶ月のモデル授業を終えた彼女は、ほどなくして一人のフォトグラファーと出会い、それが彼女のキャリアと私生活を大きく変えることとなる。
当時のイギリスファッション界で人気を博していたフォトグラファーだったブライアン・ダフィーとのコーンフレークの広告撮影で、まだ無名だったシュリンプトンとアシスタントから独立したばかりのデビッド・ベイリーは出会ったのだった。ダフィーの撮影に顔を出したベイリーはその場でわずか17歳のジーンに目をつけるが、ダフィーに『お前には高嶺の花だ。相手にしてもらえるもんか。』との忠告を受けたそう。当時ベイリーは結婚したばかりにも関わらず、結局二人は交際を始め、当然ながらジーンは愛人呼ばわりの批判を受けるようになったのであった。
しかしベイリーとシュリンプトンはモデルとフォトグラファーとしても最高の写真を次々と作り出していき、世紀のカップルとしてファッション界を越えてポップカルチャーに名を馳せたのだった。『彼がジーン・シュリンプトンを作ったの。私がモデルをやれているのは彼のおかげ。』と言う通り、モデルデビューとなったイギリス版Vogueの表紙はもちろんのこと、ベイリーはことあるごとに彼のミューズとしてシュリンプトンを起用していったのだ。自分の娘が妻帯者と付き合っていることを知った両親と衝突したシュリンプトンは家を出てベイリーと同棲するようになり、動物好きの二人は24羽の小鳥たちと2匹の犬と暮らした。この頃ジーンの妹クリッシー・シュリンプトンもモデルとして活動し、ミック・ジャガーとの交際が世間の注目を集めた。長女はいくつも年上の既婚者と不倫、次女はロッカーと交際、両親にしてみれば頭の痛い問題である。
押しも押されぬ売れっ子モデルとなった彼女はアヴェドンやアーヴィング・ペンといった巨匠達との仕事には恵まれた。また、Vogueのために初めてアメリカに進出したときのことをベイリーはこう言っている。『その日は雨が降っていて、ジーンのメイクが雨で落ちてしまって僕らは口論していたんだ。ジーンはこう言ってたんだよ、“こんな姿じゃヴリーランド(当時の編集長)に会えないわ”って。だから僕は“何もしないよりは彼女に会った方がいい”って言ったんだ。ヴリーランドのオフィスに入っていったら彼女、“イギリスが来た!”って叫んでたのを覚えてるよ』。シュリンプトンも『全てがうまくいくと分かった』そうで、ヴリーランドはその美しさに惚れ込んでしまったそうな。
1965年になると、シュリンプトンは最も高給取りなモデルにまでなり、“世界で一番美しい顔”“60年代の顔”などと評され、その人気とともに長い脚とスリムなシルエットから<シュリンプ>と親しまれるようになった。しかし本人は『シュリンプ(海老)なんて気持ち悪いピンク色で、頭がすぐにもぎ取れるじゃない!』ということで、このニックネームを嫌っていたそうだ。
この年の10月も末日になると、シュリンプトンは世間を騒がせた。オーストラリアはメルボルンの競馬レースで開かれる大手デパート主催のファッションショーに招かれたシュリンプトン。そのショーに手袋も帽子もアクセサリーもストッキングさえもなし、正装とは程遠い膝上10cmのミニスカートと男性用腕時計を着けた姿で登場したシュリンプトンに観客の目は釘付け。<ミニスカート事件>と呼ばれたこの騒動は翌日のあらゆる新聞が取り上げ、保守的な人々は当然この姿を猛烈に批判。メルボルン市長の妻にも『行儀の悪い子ども』とまで揶揄されたが、自由で開放的な流れにあった若者からは支持されたのだった。彼女自身がオーダーしたというドレス姿は、すぐにマリー・クワントが飛びついた。後にツィギーがミニスカートを履いて旋風を引き起こす少し前の話である。
この頃の音楽やファッションの中心はイギリスであり、“スウィンギング・ロンドン”と呼ばれるイギリス文化が爆発した時代であった。シュリンプトンもまた、その中心的ファッションアイコンとして地位と名誉とお金を欲しいままにしたが、男運だけはハンドリングできなかったようだ。
1964年には俳優のテレンス・スタンプと付き合い始め、彼女のために離婚したベイリーとの4年間の交際に終止符を打つ。最も有名なファッション誌の表紙、雑誌カバーアート史上傑作言われるアヴェドンとの65年のHarper's Bazaarに加えて、仕事のオファーは絶えることがなく、一作目の自伝<My Own Story About The Truth Of Modeling>を発表するまでに。
しかし『沢山のことに耐えていたけれど、彼と別れようと決めました。彼が心から私を愛していたとは思いません。彼は信じられないくらい美しくて、私は彼のルックスに恋したのです。彼に夢中になっていましたし尊敬もしていましたが、愛しているというわけではなかったんです』と、後に語ったシュリンプトンとテレンスとの関係は3年で終わり、私生活も落ち着くことなく70年代までに男性という男性を渡り歩いたそうだ。
1967年、24歳でフォトグラファーのジョーダン・カルフスと不倫愛に。彼と共にNYへ移り女優のアリ・マッグローらと一緒に住むが、2年後には別れてロンドンへ戻る。26歳で一度モデル業から退いて作家のヒースコート・ウィリアムズと交際するが、束の間の恋に終わり、すぐにヒースコートの友人であったマルコムと付き合うようになった。しかしこの関係は今まで以上に複雑なものであったのだ。当時マルコムは既婚者であった上に、マルコムとその妻、二人の子どもとマルコムの愛人の生活費はシュリンプトンが養っていたのである。
シュリンプトンは仕事のためにヒースコートに家を買ってあげることまでしたが、実際にヒースコートはその家をパーティーのために使い回していた。彼は仕事で知り合う沢山の人達をその家に泊まらせてばかりだった。『彼らは生活費を払いませんでしたし、自分達の電話代さえ出しませんでした。彼らには支払える能力がなかったんだと思います。私しかお金を持ってる人間はいませんでしたしからね。最初の頃はそこまで気に留めていませんでしたが、お金がすり減っていくと私は仕事に復帰せざるを得なくなったのです。そして考え方も変わっていきました。』と、マルコムの為にモデル業に復帰するものの33歳で限界を感じて引退。
7年間尽くしたマルコムと別れ、モデル業も辞めると、友人からの勧めでアンティークショップを開店。店の顧客だったフォトグラファーのマイケル・コックスとの恋愛が始まったものの、当時マイケルはやはり既婚者であった。しかしこの愛は過去とは違い、実を結ぶこととなるのである。マイケルと妻との離婚が成立すると1979年の1月に二人は結婚。結婚当時妊娠3ヶ月だったシュリンプトンは、同年に息子のタデウスを出産した。
1990年には二作目の著者<Jean Shrimpton.An Autobiography>を発表し、この年から夫とともにAbbyホテル内に(ここは二人が結婚式を挙げた場所)B&Bホテルを経営。非常に評価の高い経営となっており、二人は現在も仲睦まじく一緒に暮らしている。
当初はやはり正統派美人、しかも稀に見る美しさでオードリー・ヘップバーン的ポジションだったよう。しかし徐々にモデルとしてのキャリアを重ねるうちに、当初のエレガンスとは反対のしなやかで活発なポージングを見せるようになってきた、とか。コスメの契約がすごく多かったそうで、Yardley初のスポークスパーソンは彼女なんですって。確かリンダも昔Yardleyの広告塔になったはず。モデルとしての力量で言えば同時代のヴェルーシュカの方が優れているけど、幼き日のマイゼルが夢中になったように彼女も世界中の人々を恋に落としたモデルなんですよね。美女と言うよりは可愛い感じですね。しかし日本ではあまり知られてないように思います。やはり当時ツィギーがね、存在感でかすぎたから。っていうか付き合う男性がことごとく既婚者ってあんた…。あんなに美しいのに昔はダメ男ばかりにひっかかるミツコだったのね。本人も当時の自分は『自分勝手であばずれだった』と言うほどですから。