最近、「そう言えば?」という程度に少しばかり気になったこと、例えば「テレビ中継の一部を偶々観たスポーツの試合の結果や解説」というようなこと、「偶々知った、事故や災害の一報のその後」というような事柄だが、思い付いた時にネットで配信されている何らかのニュースを読む。

従前から、「テレビを視る」、「新聞を読む」というような感じでニュースを知るようにしていたと思う。上述例のようなことであれば、出来事の当日なら「テレビを視る」ということになろう。出来事の直ぐ後、場合によっては進行中に何らかの画やコメント等が視聴出来る。翌日以降であれば、何処かで新聞を手にすると、色々と詳しい話しが読める。

ニュースを知るようなことについては、「速報」と「仔細解説」というようなことが各々に大切だと思う。テレビは「速報」に優れ、新聞は「仔細解説」に優れていると観る。

長くそういう程度に考えていたが、何時の頃からかニュースは殆ど専ら「ネット」になってしまった。電波を切替えたということで、テレビ受像機が映らなくなってしまった2011年頃から、自宅にテレビが無い状態になり、それ以来「基本的にテレビが点いている場所に居合わせない限り視ない」というようになってしまった。新聞に関しては、何時の間にか購読しなくなって長かったが、新聞が在る場所に居合わせて、何となく手が伸びるということでもなければ読まなくなったかもしれない。

そんな調子だが、本当に気になる事案に関しては、図書館で借りるということでもなく、敢えて購入してでも関連の話題に関する本を入手して読むことさえ積極的にしていると思う。そういうことも背後に在りながら、様々なニュースには触れる。

ニュースに触れる場合、「そう言えば?」という程度に少しばかり気になったことについて、配信される記事等を読むということが殆どではある。が、同時に「気になった」を見出そうとする途中で耳目に触れたような事柄が気になり始め、そちらも「そう言えば?」という纏まりになって行く場合が在る。

考えてみれば、これはネットのニュースのようなモノを多用するようになるような以前から在ることであるとも思う。「そう言えば?」を念頭に新聞の頁を繰っていて、記事や広告を眼に留め、その内容や内容の一部が「新たな“そう言えば?”」となって頭の中に残ることは多々在った。或いは、そういうことを随分と以前から現在に至る迄、延々と積み重ねていて、今後も続けようとしているのかもしれない。

そんな「そう言えば?」という程度で頭の中に多々在る事柄の1つに「観光関係」という話題が在る。

このところ、少し気持ちが曇るような気がしないでもない話題に「オーバーツーリズム」という話題が在る。

多くの旅行者が訪れるということの「度が過ぎる」という情況が生じ、「迷惑千万!?」と言わざるを得ないかもしれない様子さえ在るというような話しなのである。

何やら「インバウンド」という、起こりは旅行業界の業務用語であるらしい用語が急速に拡がったように見受けられる。国外からやって来る旅客を「インバウンド」と呼んでいるようだ。そういう旅客のような「交流人口」は、方々に絶大な経済効果をもたらしてくれる筈であるとし、そのために「インバウンド」が増えるようにするのだという話しだったと思う。

この「インバウンド」なるものについて、2010年代位に注目されて、その数が増加し続けた。2010年代末頃で既に「オーバーツーリズム」という話題も聞えていたような気もする。が、2020年頃からは感染症の問題ということで旅客の動きを抑制するというようなことになった。2023年からそうした動きを停め、また旅客の動きが活発化した。そして2024年に至って、今度は「オーバーツーリズム」という話題の登場頻度が以前に増して高まっていると見受けられる。

方々に絶大な経済効果をもたらしてくれる筈であると「インバウンド」を増やすと目標設定をしていたとも記憶するが、多分未だその目標に到達していないと見受けられる。その目標に到達していない中で「オーバーツーリズム」という話題の登場頻度が高まっている。個人的には少し首を傾げたくなる。

例えば、京都の街の一隅に、豪州から来たAさん、英国から来たBさん、中国から来たCさん、ドイツから来たDさん、稚内から来たEさんと5人居合わせたとしよう。

この例の場合、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんは「インバウンド」ということになる。Eさんは「インバウンド」ではない。個人的にはこれがよく判らない。

この例のように5人が居合わせたとして、京都の街では5人共一様に「京都に常住しているのでもない来訪者」という以上でも以下でもない。4人が「インバウンド」で、1人が「以外」と区別しなければならない必然性が在るとも思えないのだ。「一様に来訪者」ではないのか?

こういうことを言い出すと、「言葉が通じないかもしれない4人と、通じる1人」ということを言われるかもしれない。個人的にはそれについても疑問が在る。

何となく思い付きで、豪州、英国、中国、ドイツと例示してみたが、それらの国々でも長く日本の文物に親しんでいるような方、研究しているような方は一定数見受けられる筈だ。そういうような方なら、例示した京都へ何かを観に足を運んでいる可能性が高く、日本語が話せる、少しは読めるという例も在るかもしれない。一概に「言葉が通じない」という「ことにしなければならない」訳でもないような気もする。

例示した「稚内」もやや読み悪い漢字かもしれない。例示した京都には読み悪い漢字の地名は多々在る。稚内から訪ねてそういうのに出くわすと、思わずアルファベットで書かれた地名を探して、それで読み方を確かめる。日頃、日本語以外―例であれば英語、中国語、ドイツ語等―を話している人達と、日頃、日本語を話しているという差は在るが、地名を知ろうとする時にやることに差は無い。アルファベットは難読固有名詞の「読み仮名」という感じになる場合も在ると、個人的には思っている。

或いは、例示した京都のような場所は、訪ねてみたいような場所が多い街で、例えば「この10年間で4回足を運んだ」というような所謂「リピーター」ということなら、例示した稚内のような、国内の何処かの地域から初めて立寄った人よりも公共交通の事情等に通じているかもしれない。そういう観点では、「言葉が通じない」か「言葉が通じる」かということ以上に、「慣れている?、不慣れ?」ということの方が余程重要だ。或いは個人の性格で、初めてであろうが何であろうが悠然と動く人も在れば、初めての場合に殊更に不安がる人も在り、或る街で動き廻ろうというような場合に存外な影響が在るのかもしれない。

最近、例えば地下鉄、私鉄、JRの駅に「アルファベット記号と番号」を記している場合が多く在る。地名に不慣れで、直ぐに覚えられない人達でも、その記号と番号を頼りに利用する駅を記憶すれば善い訳だ。稚内のような場所から訪ねた知らない街で、その「記号と番号」を頼りにする場合も在る。やることは、日本語以外を話す人達と別段に大きな差は無いと思う。

こんな程度に考えると、「言葉が通じないかもしれない」と「言葉が通じる」とは「決定的な差」とも言えないようにも見受けられる。更に踏み込めば、少し立ち止まって、観察して考えることを面倒がる人達が「言葉が通じない!」と「思考停止」をしており、そういう人達が多数派のようになっているのではないだろうか?

何となくこういうように考える場合が在るので、「インバウンド」と「それ以外」を区別するような観方が「判らない」というように感じる。率直に、何処から来た何者であろうと、「街に居合わせた人達が一様に便利で快適に過ごすことが叶う様子を目指す」という考え方が求められなければならないのではないだろうか?

「インバウンド」と「それ以外」の区別がよく判らないと、豪州から来たAさん、英国から来たBさん、中国から来たCさん、ドイツから来たDさん、稚内から来たEさんと5人を例示した。5人は一様に来訪者に過ぎない。こうした来訪者に対し、街で日頃から暮らしている様々な人達が在る。何れの人達も一様に辺りを歩き廻り、公共交通機関等を利用し、その他の様々なサービスも利用する。そういう場面で「誰でも便利で快適」という考え方が「最初」に出て来るのが当然であるように思う。

何となく「京都に居合わせた来訪者」と例示してみた。「オーバーツーリズム」というようなことで、「京都」という名が頻出する。最近、「“オーバーツーリズム”なので京都は訪ねない方が好いのではないか?」と強く推されているかのような、少し不思議な気分になる場合も在る。実際、国内旅行を愉しもうというようなことでも話題になると「京都?酷く混んでいるから…」と尻込みするかのような話しになる場合も在るかもしれない。宿泊施設の予約が取り悪い、空室の在った場所が酷く高価だったという話しも多々在って「あそこは?」ということになる場合も在るであろう。

国内各地で、例えば「夏の来訪者が多い他方、冬の来訪者は非常に少ない」、「冬はスキー場の利用者で溢れるが、夏は閑散としている」というような場所の事例は限り無く多く在ると思われる。寧ろそれが普通な筈だ。が、京都に関しては「春夏秋冬、年間を通じて各々に一定の旅行者が見受けられる」というようにかなり古くから言われているようだ。それでも冬の寒さが厳しい頃は相対的に旅行者が少ないと聞いた記憶は在る。が、他地域のような時期毎の差は少なく、寧ろ「この時季は殊更に人気が高い」が散見するのであろう。

京都については、様々な文物が在って、折々の美しさや催事が在る魅力的な地域なのだと思う。日本国外で「日本の街」とでも言えば、「トーキョー」か「キョート」という感じ、失礼ながら他が霞む程度の圧倒的な知名度なのであろう。だから旅行者はとりあえず集まるのであろう。

実際に経験が在る。国外で地元の方と話した。東南アジアへ旅行に出る際、経由地の東京で少し過ごすことにしたのだそうだ。2日や3日という極限られた時間であるということだった。「日本の古いモノはキョートか?トーキョーに泊まってキョートへ!」と張り切っている。他の地名は出て来ない。東京・京都は、新幹線なら片道2時間余りで、日帰りも可能ではあるかもしれないが、初めて日本に乗込む方が東京駅の傍でもない場所に泊るならゴチャゴチャしてしまうと思った。日本の古いモノを知りたいなら、東京には立派な展示を誇る博物館が多々在るので、1箇所か2箇所を択んで訪ねてゆっくり時間を掛けて見学し、街で食事や買物を愉しむ位の計画を組むのが無理なく楽しめると御提案した。

こういう話しを聞くと、多少驚く。京都にはかなり強引に乗込む方も含めて、実に色々な国外からの方が足を運んでいるのだと想像する。結局、国外に向けては「面白いのはキョートだけではない!!」と、直ぐに成果は期待出来ずとも、粘り強く発信し続ける以外に無いのではないかと感じる。

「東京に滞在して京都を訪ねる」というようなことになると少しキツい。が、京都の在る関西地方は交通が便利だ。京都の街中と片道小一時間という次元、「大都市圏の通勤・通学時間」という範囲内で移動可能な場所は存外に広い。そして京都が混み合っていても、片道小一時間という次元で移動可能な辺りに陣取って、京都の様々な文物を愉しむようなことも容易だと思う。

京都に一寸立寄ってみることも希望する場合、京都で滞在場所を見出し悪い場合も少なくない。そんな場合、京都の街中と片道小一時間という次元で移動可能な場所に陣取る。個人的に気に入っているのは、大阪の街中や奈良である。そういうことをすると、京都の他に別な魅力が在る街を愉しむ機会も設けられ、「折角行く関西」の価値が自身の中で高まる訳である。

京都の街中に関しては「縦横に動き廻って様々な順路で街中を巡るバスで動く」という発想が強いのだと観る。あの街へ御邪魔して、そういう地元の流儀のバスに紛れ込むのも面白いが、自身では実は然程バスを利用しない。地下鉄、私鉄各線の列車で動き、駅から出た後は街を歩き廻ることを好む。自身は歩くことを苦にしないので、何時の頃からか酷く混んでいるというバスと距離を置き、「目指す文物に至る道程も合わせて楽しむ」と考える訳である。

実際、京都の街中と片道小一時間という次元で移動可能な場所に陣取るようなことや、地下鉄、私鉄各線の列車で動き、駅から出た後は街を歩き廻るということは、近年の京都訪問で実際にやっている。そういうことをやっていると、「京都?酷く混んでいるから…」という程のことでもなく、京都で少し愉しく過ごすことも出来る。「オーバーツーリズム」を感じるとすれば、何かの折りに利用して居心地が好かった宿が混み合って利用出来ない場合が発生するという割合が高まったという時である。だからこそ「小一時間の…」という発想に傾いた訳だが。

少し位「オーバーツーリズム」という話しが聞こえようとも、少しばかりの工夫で普通に愉しむことが叶うものである。何やら旅行者が集中して困るのであれば、こういうような「こんなやり方だって在る」、「逆に愉しいかもしれない」と国内外に向けて、直ぐに成果は期待出来ずとも、粘り強く発信し続ける以外に無いのではないだろうか。

「オーバーツーリズム」という話題について、「少し気持ちが曇るような気がしないでもない話題」とした。少し位「オーバーツーリズム」と言われる様子が見受けられる場所でも、実は「やり方」でそれなりに気軽に楽しめるということが在るが、そういうことでもない漠然とした「危惧」のようなモノも、最近は感じるようになっている。

上述のように、考えてみると「インバウンド」というのも解り悪いような気がするのだが、「外国からの旅客」と半ば同義になっていて、「“外国からの旅客”が増えて“オーバーツーリズム”という情況、換言すると迷惑が生じている」とでも「言いたい??」という論が少し目立つようになって来たように、少し漠然と感じるようになって来たと思う。

確かに、例えば多分「1万人位が歩き廻る」とでも想定されているような場所に「4万人位が歩き廻る」という様子になる程に旅行客が溢れ「流石に凄い…」という様子が生じている。そういうことが繰り返し伝えられ、「オーバーツーリズム」なる語が「インバウンド」とセットで流布し、何となく「好ましくないモノ」であるかのような調子になって行っているかもしれない。

実は少し思い当たる例も在る。

嘗て、或る街では外国の小さな貨物船が大量に入港し、夥しい数の船員が上陸して街中を歩き廻ったということが在った。何かと細かい問題が街で生じると「あの連中…」という話しになった。「出来れば来ないで…」という話しも出ていた。問題が在るなら警察を呼べば善いが、そうしない。そして「言葉が通じない!」である。言葉が通じようが、通じまいが、本当に悪いことは悪い筈だが。

やがて、諸般の事情で貨物船の入港が減った。「出来れば来ないで…」が期せずして実現した。そうすると、「あの連中…」という話し、或いは「出来れば来ないで…」に寧ろ「与していた?」という方も含めて「“経済効果”が損なわれた!」と不満を表明するのである。

要は、「言葉が通じない連中は来るな!」で「経済効果だけは必要だ!」という訳の判らない話しなのだ。或る地域に、何かで出入りする人、住んでいる人、その他のあらゆる人達が便利で快適に過ごすことが叶うような仕組みを生み出し、そこから生じる利益を享受するというような発想は無いのだ。

思い当たる例よりも遥かに大きな規模で、最近の「インバウンド」と「オーバーツーリズム」という話しを巡って、奇妙な話しになっていくような気もしないではないのだ。故に少し気持ちが曇るような気がしないでもない。「言葉が通じない連中は来るな!」で「経済効果だけは必要だ!」という訳の判らない話しや、「“経済効果”とか称するはした金は要らん!迷惑な連中は寄せ付けてくれるな!」という話しになって行かないとも限らない。

観光の振興というようなことや、その他の様々な事柄の以前に大切なことが在るように思う。何処でも構わないが、街には住んでいる人達や、そこで何かの仕事をしている人達が在って、加えて各々の事由で街を訪れる人達等が同時に在る。それらの人達が「一様」に、各々の次元で便利で快適に過ごすことが叶う様子を目指すというようなことを、「全ての前提」という程度に考えるべきなのだと思う。

何処からであろうと来訪する人達、住んでいる人達等と、街に居合わせた人達が「一様」に、各々の次元で便利で快適に過ごすことが叶う様子を目指すというようなことを前提とするなら、「オーバーツーリズム」は「迷惑」の話しが前面に出るのでもなく、「混んでしまっている?如何したら、少し楽になる?」という程度の話しになって行くと思う。

時には「立ち止まって考える」ということも必要なのだと個人的には何時も思う。今般はそうやって考えてみた訳だ。