何となく考え事…
日々、様々な話題が耳目に触れ、一部は少しばかり考え事をするタネのようになる。「50歳以上」で未婚の場合、該当者は「生涯未婚」という分類とする統計が在るのだそうだ。それは以前から聞いていたのだが、それに該当する人達に関しては「平均寿命に届かずに他界する割合が高い」という話しが在るらしい。国内の男性の平均寿命は81歳程度らしいのだが、「生涯未婚」に該当する人達に関しては67歳程度という統計が在るのだという。随分と差が開くものだ。これは「一人暮らし」の状態が長く続く中での食生活や、一定の年代以上になった場合の精神的なストレス等によると観られるそうだ。「生涯未婚」というように言っても、人生の最終盤に至る迄、何らかの形でパートナーが得られる可能性は、仮令僅かで在っても、誰にでも残るのではないかと個人的には思う。そういう意味で「50歳以上の未婚」という程度の言い方がより自然なのではないかと自身は考える。実を言えば、自身もそれに該当する。振り返れば「成り行き任せ」で、如何しよう、こうしようということを然程考えずに過ごすということが殆どで、気儘に「一人暮らし」の状態を延々と続けていたのかもしれない。そんなことをしていて「得られなかった何か」も多いかもしれないが、「得られた何か」も多い筈だ。こういうのは、人の数だけの各々の人生というようなモノが在る限り、何ら特殊な事でもないのだとも思う。そういうことの故に、「成り行き任せ」で、如何しよう、こうしようということを然程考えずに過ごすことを続けてしまったことも受け容れている。そして、そうやって過ごして今日に至ったということに、生きてここに在るということに感謝の念も抱いている。「一人暮らし」の状態が長く続く中での食生活やその他の事由により、「健康上の課題」という程のモノは生じていると観ざるを得ないのだが、と言って格別の不便が在るのでもない。そういう様子で日々在るのは、結局は「生かされている」ということなのであろう。そんな中で「得られなかった何か」も在ろうが、「得られた何か」に関して、それを巧く形には出来ないにしても、それに対して感謝の念を忘れるべきでもない。そういう程度に考えていれば、或いは一定の年代以上になった場合の精神的なストレス等からは免れられるというような気がする。言葉を換えれば、「成り行き任せ」で、如何しよう、こうしようということを然程考えずに過ごすというような在り方が、所謂ストレスのような気持ちを蝕む何かから逃れるようになっているのかもしれない。既に随分と時日を経ていて、精確な時期を思い出せない程度に以前であるが、当時は時々顔を合わせていた方に指摘されたことが在った。「少し以前には、会う都度に難しい顔をしていると思ったが、最近は穏やかだ」とである。振り返れば、恐らくは所謂ストレスというようなモノに苛立っていた期間が在って、その頃は「難しい顔」であったのかもしれない。そういう苛立ちが和らげば「穏やか」になる訳である。そういうことでもあるので、所謂ストレスというような原因になる何事かは度外視して突き放し、程々に「好きなことに興じる時間を設ける」というようなことも大切なのであろう。そうした程々に「好きなことに興じる時間を設ける」というようなことに意を配る場合が増えると、「成り行き任せ」で、如何しよう、こうしようということを然程考えずに過ごすという傾向は強まるのかもしれない。そのようになると「得られなかった何か」も増えるが、「得られた何か」も増える訳だ。偶々、統計等の上で、自身が平均寿命程度には生きられない可能性が高いという分類になっているということを知った。そして考えを巡らせた。結局、人生の終焉というようなモノは、余り予期しない形で不意に訪れるという性質なのだと自身では観ている。故に自身に関すること等、知る由も無いとして余り考えていない。多分、今後も「成り行き任せ」で、如何しよう、こうしようということを然程考えずに過ごすということが続くのであろう。実は所用で出掛けるという都合が生じている。そういう機会には「好きなことに興じる時間を設ける」という「余計な事」に眼が向く。今般もその「余計な事」を色々と考えている。そんな中での「得られた何か」について、追って話題にする機会も生じることであろう。