少し前の「雪交りで強風が吹き荒れる」というような“荒天”は免れているのだが、「氷点下の域」を抜け出せないような気温が続いている。こういうような様子になると、戸外に出た場面で「妙に手が冷たい…」という程度に思う。それでも「風雪が…」という場面のように、辺りを歩き廻ることが憚られるのでもないのは幸いだ。

低温ではあっても、特段に支障も無く「日頃の暮らし」を続けることは叶う。日中の活動を平常のとおりに片付け、夕刻は御近所で適当に食事を愉しみ、然程遅く無い時間帯に眠気に抗わずに休み、妙な時間に眼を醒ます場合は在るが、今一度休んで、結果的に「早寝早起き」という程度に過ごす。夏季も冬季も、その辺に大差は無い。

御近所の御店で夕食を愉しむ場合、何となく読み掛けの本を持ち込んで、読書に興じながら食事を愉しむという場合が多い。そういう中、自身は小説等の「字が多い本」を読んでいるというのが傍目で感じられる様子だということである。が、最近は「珍しい?漫画?!」という場面が生じた。自身の目線では、小説も漫画も、文章を綴ることに対して画を描くという漫画は多少異なる作業が生じるが、「或る作者が物語を綴る」という意味で何等の際は無く、自身としては「同じ次元」で読んでしまう。それでも傍目には、小説と漫画とは「少し違う?」と見えるかもしれない。

最近読んでいた漫画は『サイボーグ009』だ。聞けば、若くして人気漫画家として世に出た作者が、何となく創作に行き詰まり、当時としてはやや珍しかった国外旅行という休暇を取った経過が在ったそうだ。その際に「世界の様々な国々の出身であるメンバーが集まるチームが強大な敵に立ち向かう」というような漠然としたイメージを思い浮かべ、それが形になって行ったのが『サイボーグ009』なのだそうだ。

『サイボーグ009』は、同じ作者の他作品でも見受けられるのだが、“悪魔の科学”というような力によって必ずしも本意ではない形で途轍もない力を得てしまった主人公達が、暗躍する“悪魔の科学”に「自らの意志」で立ち向かい、周辺に顕彰されるのでもなく、理解されるのでもない中、密かに戦い続けるという物語である。『サイボーグ009』に関しては、この「自らの意志で、密かに強大な悪に立ち向かう」という図式に加え、「各々が抜きん出た能力を持つ仲間達のチーム」という要素が加わる。“009”の9人の戦士達は「流石に漫画…」という凄まじい能力を有する面々である。こういう誇張された様子ではなくとも、人が一定人数集まれば各々の得意分野、特技を持ち寄って、出来る事を可能なように行って困難が在れば乗り越えるというのが、「古来からの人々の在り方」という気がしないでもない。『サイボーグ009』は、初登場が半世紀以上も以前ということになる「旧い作品」である。が、飽く迄も「自らの意志で、不本意ながら得てしまった力を駆使して巨悪に立ち向かう」という活動を続け、「メンバーの各々の能力を活かして助け合う」というように活動する様は、全く古臭くはない。何時の時代にも必要なことなのではなかろうか?

「古い事を懐かしむ」というのは、いい加減に年齢を重ねてしまった者の特徴ということになるのかもしれない。「少年時代」とも「子ども時代」とも言い得るような時期に親しんだ漫画が変に懐かしくなり、偶々本を入手することが叶って読んでみたというだけのことではある。が、傍目に如何であろうと自らの意志で自らの戦いに身を投じる主人公という雄々しい様や、各々の能力や特技や持ち寄って難局に向かって行くという作中の主人公達の様には、只管に心動かされてしまう。

そんなことを思うのは、「半世紀以上も前に或る作家が、少年達を含む読者を想定した作品に綴った事柄」が、「現在」に至っても「余り現実のモノになっていない?」と感じることが多いからかもしれない。「ほんの少しだけでも“現実”に…」という程度に思うのかもしれない。

“009”はヒット作品、人気作ということではあるが、恐らく作者が凄く気に入っていて、それ故に随分と長く描き継がれていたのだと想像する。様々な挿話が在る。悪役陣営の企てが「人類が…」とか「世界が…」というようなとんでもない話しで、それを阻止すべく主人公達が奮戦するという例も少なくはない。現実に「人類が…」とか「世界が…」というようなとんでもない話しを阻止するような、大袈裟な話し等、簡単に在る筈も無い。それでも身近な課題のようなモノは出て来る。そうした場合、傍目に如何かは別に、簡単に如何にか出来なくても、「少なくとも自身はこう考える」という程度にモノを見詰めることは出来そうな気がする。が…何かを考える以前に「他所は?」というようなことを言い出す例が余りにも多いと感じる。そうこうしている間に「自らの意志で事に臨む」という機会を逸してしまう。そんなことが、随分と長い間に亘って、余りにも多く重なっているような気がしてならない。

“009”の仲間達は「流石に漫画…」という凄い力を各々が有している。そういうのは現実には考え悪い。が、何事かに関して「Aさんはこれを知っている…Bさんはあれの経験者…Cさんはこういうことが出来る…」という程度の事柄は幾らでもあろう。そういう「出来る」を寄せ集めるような考え方の下、或る事案を巡って「こういう程度なら?直ぐ出来る!そして面白そうだ」という程度のことは、ほんの少し、事案を「自らの律し得る範囲」で考えれば見出せそうだ。ところが、「これなら出来る」というような話しの以前に「そういうのは出来ない」と連呼してしまう例が非常に多いような気がする。最初からそういうのも在ったような気がするが、近年は「出来る」を論じるずうっと以前に「出来ない」を連呼し、“感染症”とやらによる事情と言い募る例が溢れていると思う。“感染症”とやらによる事情と言い募ることがし悪いとされるようになっても、「出来る」の以前に「出来ない」を連呼する傾向は余り変わっていないと見受けられると思う。

最近、何か強く思うのは「“感染症”とやらによる事情」と言い募り過ぎて、色々な事柄が少し「オカシイ?」という様子になってしまって、それが「何時迄も戻らない?」というようになってしまっているというようなことだ。

「“感染症”とやらによる事情」ということで、例えば「数年前からやっていたことが出来なくなってしまった」という情況が在ったとする。それは考えてみると、「もっと以前には、“感染症”と全く無関係に技術的にやり悪かった」ということ、「経費を要し過ぎるので、最初から考慮し悪い」ということが在ったのかもしれない。他方、「“感染症”とやらによる事情」が在るにしても「こういうことなら出来る」は在る。そしてやってみると、然程の経費も要さず、存外に愉しいということになるかもしれない。それを取上げて、「これはこれで愉しく意義が在るので、続けて取組みましょう」という意見が出る場合が在る。が、その種の意見が取上げられず、「“感染症”とやらによる事情」ということに関連付けた“代替”なる考え方が「判り易い話し」として取り上げられ、「これはこれで…」が却下される。結局「“感染症”とやらによる事情」に埋没し、「出来る」に眼を向けて何かをやってみようではなく「出来ない」を連呼してみるというのが多数派を占めてしまったのだ。それ自体が、振り返ると異様なのだが、異様な考えが多数派なので、「異様?」と観る側が半ば排除されてしまった訳だ。

もしかすると「“感染症”とやらによる事情」という話しのずうっと以前からの傾向だったのかもしれない。が、巷に数多或る種々の課題に関連して、「可能な範囲で速やかに対策を講じる」という以前に、何やらゴチャゴチャと「出来ない」を論じ、「“出来ない”の解決が…」と延々とやっているというのが、近年は変に目立つような気がしている。スッキリとしない。

そういう「スッキリしない」の故に、「少年時代」または「子ども時代」に親しんだ漫画のような物語が、酷く愉しく夢中になってしまったということが在る昨今なのかもしれない。

色々と思うのだが、少なくとも何時でも何でも「自身はこういう程度に考えたい」という「意志」は何時でも持っていたい。必要以上に「他所は?」という程度のことを言いたいとも思わない。そして「可能な事を出来るように」を旨とし、必要以上に「出来ない」を連呼したくもない。

必要以上に「出来ない」を連呼したくはないが、連日の氷点下の気温を一気に上昇させて、雪を消し去るようなことは流石に「出来ない」であろう。未だ暫くは「冬らしい感じ」と付き合わなければなるまい。入手した『サイボーグ009』の本は、未だ何冊も残っているので、そういうようなモノも当面は愉しみたい。