思うことを随意に綴っている間に、本稿は文字数が嵩んでしまっていることを予め御断わりする。

不意に、少し変わっているかもしれない表現を思い出して頭に残ってしまう場合が在るかもしれない。聞けば「何?それ?」という程の表現である必然性も無いが、少なくとも「1日に数回」から「何日かに1回」というような程度の頻繁さで口にするのでもないかもしれない例を、「少し変わっている表現」としてみた。

「フェイドアウト」(fade out)という表現が在る。「少しずつ消える」という程の意味だと思う。

映画や演劇での「画面が静かに暗くなって行って見えなくなる」というような見せ方、音楽を録音したモノ等での「音が次第に小さくなって聞こえなくなる」というような聴かせ方を指すのが「フェイドアウト」だと思う。そういうような辺りから、「そこに在った何かが、何時の間にか存在感を消す」というようなことを指し示して、少し広く使われる表現であるような気がする。

映像、舞台、音楽や音声等の各種コンテンツの制作に関わるような場面でも在る人物なら、色々な過程で「フェイドアウト」というような表現は多々用いるのだと思う。が、そうした事柄と関わっているのでもないのであれば、「フェイドアウト」は少なくとも「1日に数回」から「何日かに1回」というような程度の頻繁さで口にするのでもないかもしれない例ではないだろうか。

毎年というのでもないが、年末近くになるとこの「フェイドアウト」を思い出す場合が在る。

年の前半や、前の年辺りに大きく取上げられて越年した話題に関して、不意に「振り返る…」というようなことで紹介される場合が在るのが年末だ。そういうのを見ると、「大きな存在感を誇示した事案が、何時の間にか見えない、聞こえないというようになっていた」と思い、そして「フェイドアウト」を思い出す場合が在るのだ。

何でも、何時迄も記憶に留めているという程でもない。少し旧い事柄を半ば忘れるかのような具合になって、新しい見聞が生じて来るのは、或る程度は当然だ。それ故に、前からの事案が存在感を薄めてしまうという場合が生じるのは避けられない側面も在るのかもしれない。そういう様子に気付く時、何か「フェイドアウト?」という程度に感じるのかもしれない。

場合によって「フェイドアウト?」という程度に思う事そのものが、「それは大袈裟なのではないか?」ということになるのかもしれない。自身は「フェイドアウト?」と感じて、少し考えてみたくなる場合が時々在るのだが、実は巷ではそれを「大袈裟なのではないか?」としている例が多いのかもしれないというようにも思う。

最近、「何となく“フェイドアウト”な傾向?」と感じるのは<ロシア・ウクライナ戦争>に纏わる様々な話題の伝わり方だ。

<ロシア・ウクライナ戦争>は、2022年に「全面的な侵攻」という局面に突入してしまった。長い年月で築かれた各国の安寧を護ろうとする動きを明らかに度外視するような、「武力行使による他国の現状変更」を謀るような動きが在ったので、仕掛けた側は方々からの非難を免れ得ない。

そういうことなので、「先着順争い?」か何かのように方々で「非難!」というようなことになった。更に、ロシアの文物に話題が及ぶことを忌避するかのような傾向も生じた。それは最近でも続いているように感じる。

偶々視たテレビ番組で、1995年に発生した或る事件に纏わる事柄を紹介していた。その現場に、なかなかに有名な女性シンガーとマネージャーや演奏会の際のバンドに参加している演奏家達が居合わせたそうだ。こういうようなコンテンツで女性シンガーを紹介する場合には「作品〇〇で御馴染の〇〇〇〇さん」という程度に紹介する。この女性シンガーの「代表的な作品」には色々在る。が、「10人に尋ねれば7人位がアレと挙げそうな作品」も在る。そのコンテンツの中で、その「アレ」を敢えて避けるかのように、別作品を挙げていた。少し首を傾げたのだが、「アレ」というのは原曲がラトビアで登場し、それをアレンジして詞を創ってロシアで流行り、そのロシアで流行った作品の詞を翻訳したという経過の作品だった。他にも同じ楽曲を手掛けている人達は在るのだが、あの女性シンガーの「代名詞」的な作品と言って差し支えないように思う。それの名が出なかった。「ロシアの文物に話題が及ぶことを忌避するかのような傾向」の故だと思う。

そういうような2022年に発生した傾向は未だに残っている。他方、「先着順争い?」か何かのように方々で「非難!」というようなことで、連日連夜伝えられた様々な関連の話題は酷く少なくなっているような気がする。事態は未だに先行きがよく判らないような様子ではあるが、伝わる話題が少なくなってしまっていることで、何処となく「フェイドアウト?」という程度に思わざるを得ないのだ。

2022年に「先着順争い?」か何かのように方々で「非難!」というようなことになった経過は在るが、そのこと自体が何かをもたらしたであろうか?別段に何も無いのではないか?

ウクライナでは、国民の4割またはそれ以上という人達が「“事態”の以前」に在った場所で安心して暮らせず、国外に出るか、国内の相対的に安全と見受けられる場所にとりあえず移り、多くの場所で“社会”が損なわれている。何やらの人口減少で地域社会に大きな影響が及んでいるという例は、何処の国や地域にも在ると見受けられるが、彼の国では方々でそういう様子が既に生じている。そして該当する場所は戦禍が激しい場合も少なくない。とすれば、やがてやって来る“復興”という局面で、思うように行動し悪いという様子にもなるかもしれない。

2021年にウクライナで1年間に13万人の新生児が在ったそうだが、2022年は1年間に9万人だったそうだ。子どもの激減だ。児童生徒が学ぶ学校では、普通な活動が続けられているのは全体の3割程度と見受けられる状態であるようだ。多数派が普通に活動し悪い学校が活動を再開した頃、出生数が減った経過を経て、例えば「100人から60人」と入学する児童生徒が激減する様子が方々で生じることになるであろう。

ウクライナ国内で、四肢の一部を損なうような次元の大怪我を負った人達が、把握されているだけで5万人を超えているらしい。死亡者は10万人桁だというが、詳しい数字が把握されていない。両陣営の死傷者ということなら、多分40万人やそこらには届くことであろう。さらりと数字を出したが、自身が住んでいる街は3万人台の人口だ。<ロシア・ウクライナ戦争>の推定される死傷者の数は、住んでいる街の人口の10倍以上にも及ぶ。四肢の一部を損なうような次元の大怪我を負ってしまった人の数が、住んでいる街の人口を上回ってもいるのだ。

大怪我を負う人の、怪我の原因となっているモノとして対人地雷やクラスター弾の不発弾が在る。こんなモノがどの位ばら撒かれたのか判らない。こういうのは戦闘が落ち着いても、平和を知ること無く人々を脅かし続ける。そして忘れた頃に大怪我がを負う人達が生じてしまう訳だ。

こういうように、彼の国の社会は著しく棄損され、後始末が厄介な危険物がばら撒かれたまま、または更にばら撒かれている。「先着順争い?」か何かのように方々で「非難!」というようなことをするなら、「損なわれたモノが多過ぎ、それでも生命が擦り減らされている。何とかしませんか?!」というようなことでも訴えてみることを、今の時点でやる方が余程意義深いのではないだろうか?

ハッキリ言えば、この種の事案に関して、遠く離れた第三国で何を如何言ってみようが、如何なるのでもないであろう。が、同じ如何なるのでもないのなら、「先着順争い?」か何かのように方々で「非難!」ということをやっていた2022年の動きよりも、「損なわれたモノが多過ぎ、それでも生命が擦り減らされている。何とかしませんか?!」というようなことでも訴えてみる方が、ほんの少しばかり意義が在るというような気がするのだ。

何やらモノを塗潰すかのように、「先着順争い?」か何かのように方々で「非難!」というようなことをしても、声を大きく「非難と」叫んでいる人達の、もしかすると多数派はウクライナの事情等全く承知していないかもしれないと思う場合が在る。訳も解らず「ロシアに罵声を浴びせることが正当化されたことを歓迎」という輩が、傍迷惑な程度に騒いでいたのではないか?断じてそんなことは無いと、解るように説明出来るのか?多分、まともに説明出来る者等、何処にも居ないように思える。

遠く離れた国で紛争が生じ、多くの死傷者が発生する残念な事態に陥ったとして、それは第一義的には「如何いうこと?」と学んでみる、知ってみるということをしながら静観する他に無いのだと思う。勿論、長い年月で築かれた各国の安寧を護ろうとする動きを明らかに度外視するような真似が見受けられるなら、それを「善くない」とは言うべきであろう。と言って、「先着順争い?」か何かのように方々で「非難!」としてみて何がもたらさられるのか?「こういうモノがもたらされ、大変に意義が在った」ということでも在るなら、詳しく教えて頂きたいものだ。恐らく、何処を如何いうように引っ繰り返しても、そんな説明は“数文字”程度も出て来ないと思う。

例年、個人的には、年末年始に何ら特別なことが在るのでもない。正しく「“今年”が程無く“フェイドアウト”…」という程度に思う。それでも、古くから年末に、冬至が過ぎて太陽が還って来るとしてそれを祝おうとした古い信仰と、少し新しい宗教とが混淆したらしい“クリスマス”や、新年を迎える様々な催事等、世界中が「過ごして来た日々を振り返って、その成果や安寧に感謝し、新たな年の新しい幸福に期待」という様子になっている。そんな時季だからこそ、戦禍に覆われて、もう直ぐ2年にもなろうとしている地域について「損なわれたモノが多過ぎ、それでも生命が擦り減らされている。何とかしませんか?!」という程度のことを言ってみる意味が在るように思う。

“クリスマス”や、新年となれば、年賀状―最近は少し人気が低下しているというが…―のようにカードを贈るという慣習も古くから在る。戦禍に関連する国で、巧く届くか否かは不明ながら、国際郵便を引き受けてくれる例も在るのだが、民間の国際輸送手段が思うように動いていないということで、国際郵便の引き受けが停止されて時日を経てしまっている例も在るようだ。郵便は郵便として、何処の如何いう人であれ、「過ごして来た日々を振り返って、その成果や安寧に感謝し、新たな年の新しい幸福に期待」という程度のことを思って構わない筈であろうし、そういう想いをカードでも贈り合って誰かと分かち合うということをしても差支えは無いのではないだろうか?何か荒れているからこそ、こういう“普通”を、その有難さに想いを巡らせるべきであるように思う。

何か「“今年”が程無く“フェイドアウト”…」という程度に感じられる時季だ。とりあえず無事に1年を過ごしたと言えると思う。残念なことも、嬉しかったことも在ったように思うが、「今日、ここに無事に在る」というようなことに感謝したいという感が少し募る。