色々な事案に関する観方や考え方というようなモノは、観る人の数だけ、考える人の数だけ存在し得る筈で、実に様々であると見受けられる。

それでも大別すれば、如何いう事案でも“賛成”か“反対”かということにはなるであろう。

その“賛成”にしても、「積極推進!」と声高に叫ぶようなモノから「ハッキリ反対する理由も思い当たらない…」という程度のモノまで振幅が在る筈だ。

逆に“反対”にしても、「粉砕せよ!」と声高に叫ぶようなモノから「前向きに賛成する理由も思い当たらない…」という程度のモノまで振幅が在る筈だ。

大概の場合、「ハッキリ反対する理由も思い当たらない…」という程度、または「前向きに賛成する理由も思い当たらない…」という程度の賛否というのが「実は最大の割合を占めている?」というような気がするのだ。何事かに関して、無理に強めな関心を抱かなければいけないという訳でもない筈だ。「ハッキリ反対する理由も思い当たらない…」と「前向きに賛成する理由も思い当たらない…」とは各々逆側に在るかのようにも見えるが、実は「然程高い関心を寄せてはいない」ということ、または「事案を巡る知識や情報が乏しい」という意味では殆ど差が無いのかもしれない。

というようなことを時々思わないでもないのだが、最近耳目に触れる話題の故に、改めて思い出してしまっていた。

気になっているのは所謂「国葬」の件だ。

元首相が「街頭で武器を手にした者に害される」という異常な情況で喪われてしまったということは実に傷ましい事態だ。首相という重要な公職を長めに務めていたという事情の故に「公に開かれた形で弔意を示し、不幸な情況を乗り越えて明日へ進むことを期す」というような機会を設けることに関しては、実は「ハッキリ反対する理由も思い当たらない…」または「前向きに賛成する理由も思い当たらない…」という程度の観方や考え方をする方が「最も多い」のだと思う。

「公に開かれた形で弔意を示し、不幸な情況を乗り越えて明日へ進むことを期す」という機会を設けるやり方として「国葬」が提起された。

実はこの「国葬」が提起されたということを聞いた時、自身では「ハッキリ反対する理由も思い当たらない…」というのと同時に「前向きに賛成する理由も思い当たらない…」と思ったのだった。

「ハッキリ反対する理由も思い当たらない…」というのは、その公職を務めた経過の中での事績に関して色々と論じる余地が在るにしても、異常な情況で喪われた方は悼んで然るべきで、同時に重要な公職を務めていた経過に鑑みると「公に開かれた形で弔意を示し、不幸な情況を乗り越えて明日へ進むことを期す」という機会というのは「少なくとも無用である筈は無い」と思えたのだ。

同時に「前向きに賛成する理由も思い当たらない…」とも思った。というのは「ところで“国葬”とは何が如何なるのか??」というように思ったからだ。加えて「多分?」と漠然と感じたが、感じたとおりに何らかのルールが定められているのでもないことが直ぐに判った。

「公に開かれた形で弔意を示し、不幸な情況を乗り越えて明日へ進むことを期す」という機会を設けること自体に強く反対しようということでもないにしても、何らかのルールが定められているのでもない催事を公的資金を投じて行う以上、国会のような公の場でとりあえず話し合われるべきではないかという論も直ぐに聞こえて来た。これを聞いて「尤もであろう…」と感じていた。

その後、そういう機会は特段に無いままに「国葬」の準備は進んだように見受けられる。そして「多分、“後戻り”は出来ない…やると公言したことをやる以外の選択肢は考え悪い…」という段階になっていると見受けられる中で「説明」なることが行われたらしい。そんなものは「聞こえない」というように思える。

やがて「黙れ!」というような話しも聞こえて来た。「多分、“後戻り”は出来ない…既にやる以外の選択肢は考え悪い…」という段階の催事に関して、声高に反対を叫んで如何こうなるのでもない。故に極々客観的には「もう黙っている他に何も出来ない…」のかもしれない。が、何処かの方にハッキリと「黙れ!」とでも言われると、不愉快極まりないことは免れ悪いであろう。

所謂「世論調査」というようなモノで、「国葬」に関しては「反対」が多数派になっているそうだ。少なくとも「公に開かれた形で弔意を示し、不幸な情況を乗り越えて明日へ進むことを期す」という機会を設ける方策の一つとして「国葬」が提起された筈だったのではないか?これでは「“国葬”をやったことで変な“遺恨”のようなモノが?」ということになってしまっているのではないか?「国葬」というような「弔い」は不幸なことに類するが、「国葬」から“遺恨”めいたモノが生じるのだとすれば「不幸の上塗り」ではないか?

色々な事案に関する観方や考え方というようなモノに関しては、「立ち止まって少しゆっくり考える」というようなことをすると、「もしかすると事案と直接に関係が無いかもしれないことに観方や考え方が影響されている?」という場合も多いのかもしれない。

「国葬」に関しては「反対」という観方が多数派になってしまっているという状況は、その「事案と直接に関係が無いかもしれないことに影響されている?」という場合なのかもしれない。

これは街頭で武器を手に元首相を害してしまった者が、特定の団体への怨恨を語り、元首相が当該団体と関係が深いと観て襲撃したとしていることに端を発する。政権党の国会議員等と当該団体との関係というようなことが注目され、次々と出て来る情報について「何なんだ?!」というような感じになってしまっている。

「公に開かれた形で弔意を示し、不幸な情況を乗り越えて明日へ進むことを期す」という機会を設けることと、「政権党の国会議員等と特定団体との関係」ということだが、「立ち止まって少しゆっくり考える」というようなことをすれば「別件?」というように思える。

ここで言う、政権党の国会議員等と様々な関係を有するという「特定団体」は酷く問題が多いとは思う。色々な規則のグレーゾーンで蠢き、不法な行為を長きに亘って積み重ねていると聞く。そういう団体に関しては、法執行機関が厳しく対応すべきである。

「政権党の国会議員等と特定団体との関係」ということであるが、「ほんの少しでも関りが在れば須らく糾弾」ということにもなり悪いかもしれないというようにも感じる。

国会議員等の政治家は、「話しを御聴きしたい」とでも言われれば、そういう人達が集まっている場所へ足を運んで話しもするであろう。「選挙ボランティアをします」とでも言われれば「有難うございます」と迎え入れるであろう。「〇〇のテーマのシンポジウムで登壇して御話しを」とでも言われれば、関係テーマに関する発言をする場合も在るであろう。これらを須らく「駄目!!」とも言い悪いように感じる。が、「特定団体」の看板が明確に掲げられている中、「彼らの流儀」に擦り寄ったような言動にでも及んでいるのだとすれば、「色々と“問題”も指摘される団体ですが、如何いう御考えでしょうか?」という話しにはなるのかもしれない。

ここまで思い付いて綴ったことも、、観る人の数だけ、考える人の数だけ存在し得る観方や考え方の一つだ。それらを敢えて纏めると、最近は何やら「意図してか、意図せずか、何となく“不幸”ばかりが塗り重ねられてスッキリしない?」という傾向が強いかもしれない。そういうように感じる昨今だ。