夕刻、帰宅の途次に「拙宅の食糧倉庫」と戯れに呼ぶ直ぐ御近所の店に寄り、大分県からやって来た麦焼酎の五合瓶を求めた。美しい硝子のボトルなのだが。

居室に入ってボトルを置き、室内暖房を点火し、何となく着替えた。岡山県の業者から仕入れたジーンズを穿き、何を着ようかと掴んだのが、やや珍しい“冬季仕様”という熱い生地で造られた、確かウラジオストクで入手したボーダー柄の長袖Tシャツだった。何となく着込んだ。

愛用の大阪錫器のタンブラーを取り出し、麦焼酎を注いだ。そして室内の“指定席”となっている椅子に掛けて、静かにそれを傾ける。

別段に特別なことをしているのでもないが、何となく何事かを綴ってみたいような気分になった。

朝早く、前日夜の地震に関するニュースを知った。当地は特段に自身が感じられたのでもない。気になったのは、少し離れた街に在る“親父殿”だ。彼の地は或いは揺れて慌てたということも在ったかもしれないと、電話連絡を試みた。特段に問題が生じるのでもなく通話が出来、「地震?」と尋ねれば「眠っていて全く気付かなかった。多分、然程の影響は生じていない。早朝にテレビを点けると、新幹線の列車が脱線したという話しに驚いた」と、飄々とした普段の様子で語る。安堵した。

あれは小学校に上がる前だったか?その“親父殿”が何やら地球儀を仕入れて来た。その地球儀を部屋に置いて、何となく眺めている、触っているというようなことが多かったというような記憶が在る。

地球儀を弄びながら、地球儀に示された世界の海を動き回って、色々な場所を視に行ってみたいと勝手に憧れていた。身近な建物に関しては、「殆どが幼児であった自身より“若い”」という環境、様々な住宅を建築中という様子だった新興住宅地の、辺りで最初期に建ったと見受けられる住宅に在った中、「昔の人達の動きが何となく感じられるような古い建物」というようなモノに強い興味を覚えるようになった。

そうしていた間に、海の向こうには、日本語を知らない人達が暮していて、逆にこちらも海の向こうの人達が使っている〇〇語を知らないということに気付いた。少しだけ年月を経て小学生になってから、何やら英語に興味を覚えてみたということも在った。他にバレーボールの国際試合を少し力が入ってテレビ観戦した中、当時の強豪チームだった「ソ連チーム」のユニフォームに在った「СССР」のロゴを「何??」と思い、色々と調べて彼の国の言葉で使う文字だということを知った。

偶々、“親父殿”と少しばかり言葉を交わして、随分と古い幼少期のことを思い出した。現在、自身の幼少期の“親父殿”よりも「明らかに年長…」という程度の年代になった。

長じた自身は、「色々な場所を視に行ってみたい」という勝手な憧れ、「昔の人達の動きが何となく感じられるような古い建物に少しばかり親しみたい」というような事柄は一部実現出来たと思っている。

「海の向こうには日本語を知らない人達が暮していて、逆にこちらも海の向こうの人達が使っている〇〇語を知らない」と気付いた件に関しては、長じてから英語やロシア語を少しばかり学ぶということとなった。

英語に関しては、中学校や高校で学んだ訳だが…例えば「我慢出来ない」という文例が示され、その表現を覚えようというようなことになった時、自身は「そんなことが我慢出来ないのは何故なのか?オカしじゃないか!?不当な情況でもない筈だ…」と「全く余計な事」ばかりを考えていた。そういうことで、試験科目の英語は極端に苦手だった。

自身の時代の「私大文系の受験生」―何時の間にか、当時は受験科目が多彩であった「国立」を勝手に諦めたのだった…―というのは、例えば英語、国語、日本史、小論文というような科目に対応するようになっていた。自身の場合、国語、日本史、小論文は「何処なりと、気儘に挑戦して可能性が在る」というようなことであったかもしれない―高校3年の時、国語の教科担任をしてくれた教頭先生が「君の文章は好い」と褒めてくれた。それが現在でも、思い付いて色々と綴ろうとする遠因になっているような気もする…―が、英語に関しては「日本中で拾ってくれる場所等、絶対に無い!」という惨憺たる状況だった。所謂“現役”で見事に玉砕し、「最後の1回」ということになったのだった…

「惨憺たる状況」を打開する?「王道は無い」と必死に努力をするということになるのかもしれない。が、鉱脈が無い場所で多額の費用や莫大な労力を投じても資源が得られないのと似たようなもので、無駄な事はすべきではない。そういう中で「王道は無い」ということに関して「直進出来なければ右折…右側の路が塞がれば左折…結果的に目的地に着けばそれで善い」というように勝手に解釈した。そして考えた。「最後の1回」と進学の機会に賭けようとしているが、「残念ながら…」となっても、英語による何やらの主張に耳を傾ける、読んでみる等して、自身の思う所を、少しばかり下手糞でも語ることが出来れば「それで善い…」のではないかという結論だ。

この結論の故に辿り着いたのは、ラジオやテレビの語学講座系の番組を真面目に聴取、視聴するということだった。「高校卒業後、とりあえず親の家に居候の“自由人”」という立場で、与えられた小遣の範囲でテキストまで買い込み、そういうモノに付き合った。そんな中、小学生の頃にテレビ観戦していたバレーボールの国際試合で、強豪チームだった「ソ連チーム」のユニフォームに在った「СССР」が「如何いうモノ?」ということを確り教えてくれるロシア語関係のコンテンツも在ることに気付いた。それにも“趣味”として付き合った。

何やら色々と在って、“親父殿”が「お前の人生…お前が好きなように…何処かに妙な迷惑が及ばない限り、気が済むようにしろ…全部お前がやることで…自分は何かが出来るでもない…が、応援が必要なら、及ばない部分が在ることはハッキリ断っておくが、可能な範囲で応援はする…」と言っていた中、未だに「事務局の誰かが深刻な間違いでも仕出かした?!」と思っているのだが、そしてよく半ば戯れに「間違って…」と頻繁に言うが、進学を果たした。

進学を果たした後、結果的に「ソ連の歴史を少々学んだ…」というような感じで、大学で学ぶ訳だが…結局、ラジオやテレビの語学講座系統の番組に在るロシア語関係のコンテンツに触れたということが自身の礎になっている。

ラジオやテレビの語学講座系の番組に少し真面目に付き合うと、「永きに亘り、ラジオ、テレビの“各々の特性”に鑑みて、佳いコンテンツを創り続けている」という、ずうっと遠い将来に「文化史」として語られるような、関係者の皆さんの努力が在ることに容易に気付く。

ラジオの場合は、週単位で“1単元”というような構成になっている。週の後半の「今週の纏め」というようなモノで「徹底的に復習」ということを重ねると、内容がかなり身に着く…

テレビの場合は、結局「活き活きと会話する人達」の様子を視るということになると思う。自身でこの種のモノに付き合った頃は、ロシア語であれば、モスクワのテレビ局からやって来たアナウンサーが出演して、ニュースを読むような調子で、或いは詩や小説をカッコ良く朗読するような調子で話し、講師の大学教授を何やら語り、生徒役の若者が色々と挑戦という感じだった。(進学した大学でも御世話になった「ミッズノサーン…プロフェッサル…」というような調子で、確かマリーナ・ブルツェワというロシアの女性アナウンサーが紹介していた、あの感じを未だに覚えている…)最近は?テレビでは「ロシアを訪ねて…」という現場映像を積極的に容れた内容であるという。

何か、不意に自身の人生の少し旧い部分に言及が在るような内容を、大分県の麦焼酎を満たしたタンブラーを傾けながら綴っているのだが、偶々知って衝撃を受けた事実が在る。テレビの語学講座系の番組のロシア語のモノが、「3月末で終了」ということで、4月以降は放映されなくなるそうだ。

自身では、何か「卒業した学校の建物が粉々に粉砕され、やがて学び舎の痕跡が抹殺される…」というような寂しさを禁じ得ない。何となく焼酎でも呑みたい気分になる。

「放送」というのは、製作するコンテンツを無制限に送り出すことが叶うのでもないのだから、或る程度の「整理」は止むを得ないのだと思う。が、様々な利害関係と一定程度の距離を置いて、語学講座系の番組を放映しているというようなチャンネルで、「何故、ロシア語がカット?!」というように思ってしまう。

「世の中の大多数の考え方に反するのがけしからん!」というように、如何でも構わないような“その他大勢”に向かって怒鳴り散らして粋がる卑怯者の類は何時の世にも在る。が、自身はそういう感じの何かに出くわす都度、「それでも地球は動いている」と言い放ったと伝えられる随分と昔の研究者の言を思い出す。

何やら最近の様々な情勢の中、“ロシア”と名が付くモノは「悉くダメ!!!」という雰囲気の中で、雰囲気に流されて、テレビでロシア語を学んでみようとするコンテンツが「放送禁止!!!!」にでもなったかのようで、「酒でも呑まずに居られるかぁ!!!!」というような荒んだ気分になってしまう。

色々な事案に関して、ハッキリ言えば「色々な考え方が在りますよね…」が許容されるというのが、「普通」である筈だ。「世の中の大多数の考え方」とやらに同調することが強要されなければならない必然性は何処にも無い!!思想信条は個々人の自由なのだ!

「世の中の大多数の考え方」とやらで、“ロシア”と名が付くモノが悉く気に食わないというようなことを喚き散らす「哀れな国の愚かな民」よ!!!少し冷静になれ、と申し上げたい。

「呑みたい気分」と盃を傾けながら綴っていることを言い訳に、些か乱暴な言辞も在ったかもしれない。が、「世の中の大多数の考え方」とやらで、例えば「互いに引越しようもない隣国であるロシアとの間で、過去の様々な経緯はそれとして、未来に向かって善隣関係を築くことを志向したい」としてやっていた、少し長い経過を「外道呼ばわれ」されなければならない謂れなど「全く無い!!!!」ということだけは強く申し上げたい。そんなことを言い出すのは「明白な行き過ぎ」である!!!

放送局の側としては、「偶々…」という以上でも以下でもないかもしれない。が「今!!このタイミング!!!」で「ロシア語を学ぶ人達向けのコンテンツ」を「放映休止」とすることは、“ロシア”と名が付くモノは「悉くダメ!!!」という雰囲気に「迎合!!」ということにしかならないのではないか?「色々な考え方が在りますよね…」が許容されないというのなら、「口を極めて罵っている対象の体制」と「全く同じ!!!」だということにならない?!?!

敢えて繰り返しておく。「世の中の大多数の考え方」とやらで、“ロシア”と名が付くモノが悉く気に食わないというようなことを喚き散らす「哀れな国の愚かな民」よ!!!少し冷静になれ、と申し上げたい。

大分県の麦焼酎はなかなかに好いのだが、余り呑み過ぎるのも好くない。ぼちぼち止めて、ゆっくり休みたい…

 

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