例によって「早目に休んで、早目に起き出した」という朝、<海軍さんの珈琲>を淹れ、それを満たした愛用の紅いマグカップを傾けながら、豆を求めた呉で出くわした「冬の陽光」が心地好かったことを何となく思い出していた。

昨日の当地は「プラス5℃」に気温が上昇し、1日を通じて0℃を下回る気温にならなかったようだ。「冬の陽光」を思い出した呉のような、少し温暖なイメージの場所では、12月の深夜から早朝には5℃程度であっただろうか…その「彼の地の最低気温」が、現在の当地の最高気温というような感なのだ。

今日も当地はプラス気温、現在時点で「プラス4℃」という程度であるようだ。厚めな積雪は少し緩くなっていて、道路を覆っていた雪も少なくなって、湿った黒い舗装路面が覗いている。

少し前に読了した小説は、少し長めな数十年間という時間軸の中で、時代毎の実在した事件等を作中世界に取上げ、そこを生きている主人公の様子が描かれるというようなモノだった。偶々そういうモノに触れると、自身が生きたような時代が、少し後の時代に如何いうように取上げられ、論じられるのだろうかというようなことを何となく思うという感だ。

「平成」と号した期間は、上述の小説に阪神大震災の件が少し詳しく出て来るのだが、他にも幾つも大きな災害が在ったことが記憶される。とりわけ東日本大震災は衝撃的だった。

多数の犠牲者が生じた大規模災害の発生した日というのは「悼む日」ということにもなると思う。毎年、「“あの日”が巡って来た」と東日本大震災に関する話題が取上げられるのが3月である。

その3月11日を迎えた。

2011年の3月11日は、当地に在って、届いた情報に驚くばかりだった。「大津波警報」ということになり、「“大”とは何?」と素朴に思ったのだが、後から伝えられた津波の様子には「こんなのは想像したことさえない…」と半ば言葉を失った。

そういう大規模な津波で、4階建ての3階に自動車が文字どおりに流れ込むというようなことが在ったという。そういう場所の一つの、大震災当時は高校の校舎であった場所が、災害の記憶を伝える場所、資料館として活用されているという。

校舎3階に自動車が流れ込んでしまったというような高校は、その自動車が在る様子をそのままに資料館になったが、高校は別な場所に新たな校舎を設けていて、現在も地域の若い人達が学んでいる。その若い人達、高校生が資料館で“案内役”を務めているということが在って、その話題が取上げられているモノが耳目に触れたということが在った。

現在の高校生は2011年当時に5歳や6歳だったという。災害によって生じてしまった、尋常では無い状況を視たということを、御自身の記憶として色々と覚えているという。が、その高校生より年下の弟や妹、2011年当時に3歳、2歳だったという人達になれば「本人の記憶」というようなことでは余り覚えているのでもないのだという。

異常な事態ということと、それに出くわした記憶というのはそういうようなモノなのかもしれない。現在の高校生位の人達は、「御自身の記憶」ということで震災を覚えている「最後の世代」ということになるのかもしれない。

こんな「最後の世代」という話しが耳目に触れ、思い出したのは「昭和20年」ということであった。

前日の3月10日というのは、1945年の東京大空襲の日であった訳だ。

激烈な空爆、夥しい量の焼夷弾の投下で街が燃えてしまったという出来事だ。その当時に5歳や6歳だった方は、現在は82歳、83歳というような感だ。

最近、色々な事で著名な方が他界される例が多い。過日、“親父殿”が「あの人は?最近亡くなったのか?毎日沢山のニュースを視るのでもないので、一寸判らなかった…」と話題にしていたのだが、その種の報が相次いでいて些か残念だ。そういう報の中で、亡くなるった方の年齢が伝わると、今年であっても何年か前の例であっても、他界した時点で82歳や83歳という程度である場合が多いような気がする。

異常な事態を「御自身の記憶」として留める「最後の世代」というような人達が、その記憶を伝えられるのは、御本人が80歳代となる位までか?大切に伝えるべきなのであろう。高校生に関する話題の中、「家族で不安な中に在った大震災の中、何時も一緒に居た弟が“実は…余り覚えていない…”としたことに驚いた」としていて、資料館の“案内役”を務める場面で「5歳や6歳の頃のことを覚えているだろうか?」という辺りから話しを切り出すようにしているということだった。

こういう「災禍」、「戦禍」というような“禍”に関して、その種の話しが伝わる都度に、危険に晒される多くの人達が危険から免れられることを願うばかりであるが、時間が経つ中で危険の晒されてしまった事が正しく伝えられなければならない筈だと思う。そして「安全」や「平和」に感謝の念を新たにする。

想えば現在も異常な事態の極大級なモノが動いている。ウクライナやロシアである。

彼の地では、1940年代前半の戦禍が在って、その頃のことを「御自身の記憶」として留める「最後の世代」というような人達がいよいよ少なくなっていた状況だったと思う。そしてその戦禍に関してだが、「先人が犠牲を払わざるを得なかったことは伝え、犠牲には感謝や敬意を表すべきである」という考え方も強いのが彼の地である。

「先人が犠牲を払わざるを得なかったことは伝え、犠牲には感謝や敬意を表すべきである」という考え方は、「脅威に晒されれば、それに屈せず闘い、人々を護る」というような軍人の矜持というようなモノの前提になっているのであるとも思う。

現在のウクライナ、そしてロシア軍?「脅威に晒されれば、それに屈せず闘い、人々を護る」というようなことで、ウクライナでは矜持を持って脅威に抗っていることであろう。が、ロシア軍は「脅威を与えるばかり」なのではないか?ロシア軍関係者自体が、矜持を穢す行動に及んでいるということで、最も気持ちを曇らせているのではないか?

彼の地で、1940年代前半の戦禍が在って、その頃のことを「御自身の記憶」として留める「最後の世代」というような人達がいよいよ少なくなっていた中、「2022年の戦禍の記憶」を留める人達が登場してしまった。そういう中で多くの人達が生命の危険に晒されている。

「災禍」ということなら、人智が及ばないような自然の力で、想像さえしないような「訳が判らん…」という状態になって、危険に晒されてしまう。対して「戦禍」の場合、物々しい装備を使用することを停止すれば、多くの人達の危険は免れられる。「人の意思」で「安全」になるのだ。

ロシアでは、多分ウクライナでも同様であろうが、1940年代前半の戦禍に関連し、「先人が犠牲を払わざるを得なかったことは伝え、犠牲には感謝や敬意を表すべきである」という考え方で、毎年恒例の催事が在る。1990年代前半のロシアで、「あの戦争は現在では否定された体制の下でのものであったので、敢えて記念せずとも…」という“見直し論”が在ったようだ。が、それは一蹴されたと聞く。「先人が犠牲を払わざるを得なかったことは伝え、犠牲には感謝や敬意を表すべきである」という点に関して、体制が如何こうというのは無関係じゃないかということであった。

おかしな事態になって、未来は如何なって行くのか判らない。が、それはそれとして過去の色々なモノを否定する必要等は何処にも無い。ロシアと名が付くモノを蔑む、貶める、否定する必然性等は何処にも無い筈だ。そして如何であろうと、日本国にとってはロシア連邦は隣国で、善隣関係が維持されるべきだ。とりあえず「制裁」という動き―これは「脅威に恫喝で抗う」という「戦い」だ…―に賛同し、実施を発表した諸国に対してロシアは「非友好国」に指定と打ち出した。これは「当然の反応」であると思う。

かの東日本大震災の犠牲者を悼むという3月11日が巡って来た中、“禍”に想いが巡った。そしてそうしていた間に<海軍さんの珈琲>を満たしたマグカップも空いた。